27.10.12

霧のロンドン、マキノとハラが見た100年前の小径。

月曜日の霧。ハイゲイト・ウッドにて。

今週は、月曜日から水曜日まで、3日連続で霧の朝でした。月曜日の霧が一番深く、朝一番は、自分の指先も見えないんじゃないかと思うくらい。うれしくなって、森に写真を撮りに行きました。

こちらも月曜日の霧。ハイゲイト・ウッドにて。

火曜日は、前日ほどではないものの、やはり霧の朝。前日よりも早い時間に、再び森へ。

火曜日の霧。ハイゲイト・ウッドにて。

水曜日は、ずいぶんとやわらいで、浅い霧の朝。その前の2日間に比べると、ちょっと物足りない感じです。でも3日間連続での霧に、急に、というか、かなり必然的に「霧のマキノ」を思い出したのです。

「霧のマキノ」、明治から戦前の昭和にかけてロンドンで活躍した日本人画家、牧野義雄(1870〜1956)をご存知でしょうか。23歳で単身渡米、その後、牧野はロンドンにやってきます。最初の10年間はなかなか彼の才能が世間に認められなかったものの、1907年に挿絵を手がけた「Colour of London」という本がベストセラーとなり、牧野の描く「霧に煙るロンドンの風景」は、みごとに当時の英国人の心をつかみました。

いまでも「霧のロンドン」という言葉は定着していますが、ヴィクトリア時代のロンドンは公害によるスモッグのために、靄がかかることが多かったようです。現在でも、もしかしたら東京よりも霧の発生する頻度は高いかもしれませんが、牧野の時代は、おそらくもっともっと、ロンドンは霞のなかにいたのだろうと思われます。

もうずいぶん前ですが、「牧野について興味がある」と知人に話したら、2冊の本を貸してくれました。読まずに積みっぱなしにしていたその本を改めて引っ張り出して、霧がずいぶん浅くなった水曜日の午前中、そのうちの一冊を夢中になって読みました。牧野義雄が1913年に英語で書いた「述懐日誌(原題:My Recollections and Reflections)」という本です。この本、後半部分はさすがに時代が違いすぎるせいか、牧野の展開する日英の違いなどに、あまり素直にうなずけず、とばし読みしてしまったのですが、前半部分の彼の生活や友人関係は、本当におもしろく一気に半分まで読みました。

夢中になって読んだこの前半部分、渡英9年目の牧野と、やはり絵を学ぶために日本からやってきた肖像画家の「原」との関係に多くのページが割かれています。原がどれだけ真摯で優れた画家だったか、どれだけ苦労した人だったか…。妻と年老いた母を日本に残していたために、原はたった3年でロンドンを後にしますが、帰国後の原は牧野の絵を日本で売ることに協力し、牧野の甥っ子の大学生活を助け、そしてふたりは文通で気の置けない芸術論を戦わせます。そんな関係は、原が数年後に病で亡くなるまで続きました。

この本の前半にある、牧野と原がロンドンにいるときのやりとりのひとつが、あまりに印象的で、私の心をがしっとつかんで振り落とそうにも振り払えなくなりました。それは、こんなエピソードです。

ある日、ふたりが下宿に戻る途中で「スィスル・グローブ」という道を見て、ふたりは同時にこの光景を絵に描きたい、と思います。自分に描かせてくれないか、と言う原に、牧野は「ふたりの男がひとりの女を同時に愛するわけにはいかない。彼女は君にやる」と譲り、原にスケッチをさせるのです。けれど、原は結局死ぬまで、その絵を仕上げることをしなかった。牧野は牧野で、律儀にその風景は原のもの、と、自分で描くことはせずにいたのですが、原の死後、ふたりの友情の思い出にと、スィスル・グローブにおもむき、自身のスケッチを描き上げます。

牧野のスケッチが載っているページ。これをiPhoneのカメラで撮って、
それを頼りにロケーションを探してみました。

このスケッチが、あまりにも美しくて、心を打たれた私は、スィスル・グローブをぜひ自分の目でも見てみよう、とかなり衝動的に思い立ちました。そこで、ちょうど同じ日の遅い午後、取材の前のちょっと空いた時間を利用して、ケンジントンに向かったのです。

果たして、牧野が当時下宿していたシドニー・ストリートにほど近い場所に、スィスル・グローブはすぐに見つかりました。オールド・ブランプトン・ロードとフラム・ロードをつなぐ、車両進入禁止の500メートルほどの小径。本に載っていたスケッチを写したiPhoneの写真と見比べながら、この道を北から南に向かって、どのあたりなんだろう、としみじみ眺めながら歩きました。

北側は、すでに新しい建物が並んでいるので、当時の面影とはずいぶん違うように感じます。ただひとつ、スケッチのなかにあるのと同じかたちの外灯が並んでいることだけが、この道が「やはりそこなのだ」という証拠のように思えました。フラム・ロードにたどりついて振り返ると、おそらくこれじゃないかな、という風景に私の目にはうつりましたが、いかがでしょうか。

牧野のスケッチと同じかたちの外灯が並んでいます。

暗くなるまで、あと30分か、1時間。牧野の絵にある灯りのともった外灯が見たい、と欲を出した私は、近くのカフェで時間をつぶし、再度ここに戻ってくることにしました。

牧野と原が眺めた風景も、おそらく秋冬のことだったかと思います。

さすがに、霧はありませんでしたが、ふたりが絵に描きたい、と思ったのもわかるような気がします。落ち葉がはらはらと舞う薄暮の小径の風景は、その現実がすでに絵のようでした。いつか、早朝の霧のなかでこの風景を写真に撮れたなら、少しは牧野と原の世界に近づくでしょうか。チャンスがあったら、ぜひ戻ってきたいと思います。

さて、この本のなかでは「原」としか、記述されていない、牧野の親友だったこの肖像画家がどんな人物だったのかが気になって、家に帰ってきてから、ネットで調べてみました。

原撫松(はら・ぶしょう)、1866年1月27日岡山県生まれ。39歳で渡英、3年後に帰国し、その直後から体調が優れることはなく、1912年に逝去。いつか再びロンドンで会おう、と約束したものの、再度ロンドンの地を踏むことも、牧野との再会を果たすことも叶いませんでした。

死の直前まで、病床で弱々しく「絵が描きたい」とつぶやいていたという、この明治の洋画家が亡くなったのは、ちょうど100年前の今日、1912年10月27日。そして私とひとつしか違わない46歳だったことに、なんだか奇妙な縁を感じてしまうのは、ばかげているでしょうか。

牧野よりもずっと知名度が低くて、wikipediaにも名前の載っていない原撫松。あともう少し長く生きられたなら、事情は違っていたのかもしれませんが…。この早逝の画家の没後100周年を、彼の愛したここロンドンで、今日はひとりちいさくお祝いしたいと思います。

原撫松の絵画は、彼の出身地である岡山県の県立美術館に多く所蔵されているようです。ご興味のある方は、こちらのリンクもどうぞ。



2 件のコメント:

  1. 100年前に絵になった景色を探すなんて、ロマンチックですね。
    当時日本人が外国で暮らすなんて、とても大変だったことでしょう・・・。

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    1. aruさん、コメント残してくださって、どうもありがとうございます!
      私、昔なにかに載った場所とか、小説の舞台になった場所とかを訪ねるのって、好きなんです。それが、なんてことない風景の場所でも、ここなのかぁーとひとり感動してしまいます。笑。

      「風と共に去りぬ」でアイルランド移民のスカーレット・オハラの父親が自分の農場を「タラ」と名付けましたが、そのもととなったアイルランドの聖地タラを訪れたときも「こんな真冬に、なんであんなところに行きたいの? ただの丘よ?」ってツーリスト・インフォメーションの人に言われました。

      本当に「ただの丘」でした。けど、やはり感動しました。はは。

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