19.3.13

トリエステのこと。

生活のにおいがちゃんとするトリエステ。

20代前半の一時期、2、3日休暇をとっては、ひとりで神戸に出かけていました。

なにをするでもなく、ただひたすら、海と山にはさまれた坂道を歩きまわって、ぼんやり過ごすだけだったのですが、振り返ってみると、仕事ばっかりの日常で疲れた心を休めるのには、必要な時間だったのかなぁ、と思います。

先日、いくつかの偶然に導かれて、トリエステに行ってきました。そのいきさつについては、また改めて書きたいと思いますが、この旅を決めたときには予想していなかったいろんなことが重なって、出発の朝の私は、心身ともにかなり疲れた状態にありました。この旅を決めたのは無謀だったかな、とちょっと後悔の気持ちすらあって、なかなか気分が上がらなかったのですが、それはあくまで、空港から街に向かう道で海を見るまでのこと。

トリエステは、アドリア海に面し、すぐお隣はスロヴェニア、というイタリアの端っこにある海辺の街です。第一次大戦までは、オーストリアの統治下にあったため、「ウィーン風の街」と形容されているのをときどき目にしますが、私自身はウィーンに行ったことがないので、よくわかりません。ただ、ほかのどの土地とも違う、独特の時間軸と坂道と壁のある街、というのが私の印象です。

海と山にはさまれた坂道を、細い路地から路地へと、ここでもただひたすら特に目的もなく歩きまわっているうちに、神戸の坂道をひとりでうろうろ歩きまわっていた20年前の自分と、いまの自分が、カメラのピントがゆっくり合って、ひとつの絵を結ぶみたいに、重なってゆくのを感じました。

いいか悪いか、幸か不幸かは別として、いろんな出来事があってバラバラになりそうになっても、人は決してちぎれることはないし、過去といまはどこかでしっかりとつながっている。そんな確固とした、泣きたくなるような手応えを、いくつか得られた旅でした。

「つながっている」といえば、時間軸もさることながら、空間に関しても思うところがありました。

今回、ネットを頼りに、そこそこ評判もよく、値段もリーズナブルなホテルを予約したのですが、このホテルが素晴らしかったのです。シンプルだけどセンスよく、地元のアーティストの作品や、おそらくご主人のコレクションと思われるアンティークのコーヒーメーカーで飾られた、家族経営のホテル。いまどき珍しくレコードプレーヤーがラウンジで音楽を奏でる、この小さなホテルの廊下には、わずか2週間前に私も足を向けた、パリで開催中の「メキシカン・スーツケース」の写真展のポスターが貼ってありました。

思わず、指を差して「わぁっ!」と大声をあげてしまい、「これっ、行きました、2週間前にっ」と自己申請すると、「おぉ、素晴らしい」とご主人もニコニコ。「ぼくも先週の金曜日に行ったんですよ」と。

1週間の時間差で、パリで同じ写真展を観た私とご主人が、いまトリエステで、こうしてひとつのポスターを見ながら横に並んで話している。たいしたことじゃないのかもしれませんが、やはり世界はつながっているんだなぁと、ひとり勝手に、感慨深く思った瞬間でした。

このホテルについては、再度ゆっくり訪れて、ご主人のお話ももっと聞いてみたいと思っているので、いつの日か改めてちゃんとご紹介したいと思います。

「トリエステに年に何回か来られるなら、もう一生パリには行かなくてもいいです」という、大胆かつ意味不明なSMSを送って、夫をドン引きさせた私ですが、客観的に考えると、これといった観光名所もないこの街が、万人にうけるかというと、それはちょっと違うかな、とも思うのです。ブランド・ショッピングをしたい人には、まず向いていないし、博物館、美術館をまわりたい、という人にも向いていないし、世界各地のお料理が食べてみたい、という人にもおもしろくない場所だと思います。

でも、少なくとも、古いフィルムのカメラを首からぶらさげて、ばかみたいに日がな一日、生活のにおいのちゃんとする路地から路地へと、ただひたすら歩きまわるだけで幸せで、そして、そんな時代遅れで洗練されていない自分が、決して嫌いじゃない、という方なら、一度は足を向けてみるのもよいかと思います。

ちょっとひと休みさせてもらった感のある、数日間でした。


トリエステの写真はこちらにも少しアップしました。ご興味のある方はどうぞ。



7.3.13

「giorni」春号

リサ・ラーソンさんのネコ柄ティーマットが付録についています。


久しぶりに、日本の雑誌にまとまった分量の原稿を書かせていただきました。

ロンドンの緑とお茶がいっぱいの、春らしい一冊です。

書店で見かけたら、ぜひお手にとってご覧になってみてください。

3.3.13

ヴァンサンさんのカメラ・ショップ。

「メキシカン・スーツケース」の写真展を観るために、パリにさっくり行ってきたのですが、パリでの出来事をもうひとつだけ。

昨年、お友だちのお父様が使っていたという、フィルムの古いカメラを譲り受けました。レンズのカビを掃除してもらったり、オーバーホールに出したり、それなりにお金はかかりましたが、知人の写真家の方にも「それは名機だよ、ちゃんとメンテすればずっと使えるよ」と言われて、気をよくして使っていたのですが、こんなことに。

フィルムを巻き取るハンドルが取れちゃったのです。

フィルムを巻き取るハンドルが取れてしまったので、なくさないように保管しつつ、必要な時だけ上にくっつけてフィルムを巻き取り、その場その場をしのいでいました。

ところが、パリでいつものように撮り終わったフィルムを巻き取ろうと、上にハンドルをくっつけて回せども、くるくるくるくる空回りするばかり。これはもう、ダメになるのを承知のうえで、蓋を開けてシャーっと取り出すしかないのだろうか……と、お先真っ暗な気持ちになっていたところ、はっと思い出したのが、お友だちのまぁちゃん(まぁちゃんのブログはこちら。写真の好きな方は必見です)が連れて行ってくれた日本街のカメラ屋さんです。

和食屋さんや日本の食材屋さんが並ぶ、rue Sainte Anneの北側にあります。
ちなみに看板はおそらく昔ここにあった店の名前で無関係です。

こちら「Photo Vincent」という名前のとおり、ヴァンサンさんのカメラと写真のお店。ここに朝からどたどたと、フランス語をまったく話せない日本人の私が、厚かましくも「助けてぇぇ」と飛び込んでいったわけです。

ひととおり、カメラをあちこちいじっていたヴァンサンさん、なにやらいろんな引き出しを開けて、なにかを探している様子。なんでも、カメラの巻き取りを司るパーツがひとつなくなっていて、普通に巻き取ることはできない。そこで店の奥にある暗室でフィルムを取り出すにあたり、黒いフィルムのケースが必要、とのこと。新しいフィルムの箱を開けてみたものの、それも半透明で「うーん」と考えていましたが、「仕方がない、半透明のケースに紙を入れて保護します。ちょっと待っててね」と、どこの馬の骨ともシャモの骨とも知れぬ私をひとり店に残して、奥の暗室に消えてしまいました。

5分後。

もとのフィルムのパトローネに、取りだしたフィルムをちゃんと戻して、ヴァンサンさんは暗室から戻ってきました。素晴らしいっ!! 拍手喝采です。

その後も、カメラをいろいろチェックしてくれて、とりあえず使えるように(次に入れるフィルムも巻き取れるように)してくれました。その間テストで、お店に置いている未使用のフィルムを入れてくださったり、またそれをムダにしてしまったりしたので、ぜひいくらかお支払いしたかったのですが、「お金は要らない」の一点張り。

なんとかヴァンサンさんのビジネスにもなるようにしたくて、「じゃあ、このいま救ってくださったフィルムの現像とスキャンをお願いします」とお願いしました。が、そこで急に「ケッ、こんなろくでもねえ写真のために、あんな大騒ぎしたのか、ちきしょうめっ」と現像液をひっくり返すヴァンサンさんの姿がフッと浮かんで、「あの、大した写真じゃないけど、1枚くらいいいのがあるかもしれないので。すみません」とあらかじめ謝ってしまいました。私の想像が本当にならないことを祈るのみです。

さて、こちらのお店、新品とセカンドハンドの各種カメラを置いていますが、特にライカの品揃えがよいようです。

ライカがいっぱい♡

フィルムの現像は、カラーだと2、3日、モノクロだと1週間とのこと。カメラ好きの方には、おすすめのショップです。

私のフィルムを救ってくださったヴァンサンさん。静かな物腰のジェントルマンです。

Photo Vincent
67 rue Sainte Anne 75002 Paris
www.photo-vincent.com

<営業時間>
月〜金 10:00〜19:00
土 10:00〜14:00














メキシカン・スーツケースをめぐる旅。


昨年の秋に観た映画「Mexican Suitcaseの写真展が、パリのMusée d'art et d'histoire du Judaïsme227日より始まりました。


写真展が開催されている美術館の中庭

この写真展、私が昨年調べた限りでは、ロンドンに来る予定がないようでしたので、ユーロスターでひとっ走り(2時間半)、弾丸のごとくパリに行ってきました。写真展に加えて、普段はメールやSNSでしかやりとりしかできない、遠方のお友だちにもしっかり会えて、一秒も無駄にしてなるものか、とばかり、機関銃のようにしゃべって、本当に楽しい充実した時間を過ごしたのですが、こちらのブログでは、この写真展について、少し紹介したいと思います。

日本でも沢木耕太郎さんのNHKのドキュメンタリーや、東京で行われた写真展でご存知の方も多いと思いますが、「Mexican Suitcase」とは、ロバート・キャパ、ゲルダ・タロー、デイビッド・シーモアの3人がスペイン市民戦争で撮影したネガ4500枚の入った箱を意味しています。長い間、行方不明になっていて、キャパの弟であるコーネル・キャパが探していたこの箱が、メキシコで見つかってコーネルの手に渡ったのが、2007年12月のこと。2011年5月のNYを皮切りに、これらのネガの内容を紹介する写真展が世界中をツアーしています。

とりたてて戦場写真というジャンルそのものに、関心があるわけでも、特別キャパの写真のファン、というわけでもないのですが、一度は失われたこの歴史的な写真が、70年もの時を経て人々の目に触れることになったそのいきさつに感動してしまい、これは絶対にこの目で観なければ、と思ったのです。

これらのネガを救ったのは、キャパと一緒にハンガリーからパリに移民としてやってきた、キャパの幼なじみであり、後に彼の暗室担当となるチーキー・ウェイジという人物です。このときと前後してキャパ自身は、スペインから直接メキシコへ移動していたはずで、これらのネガを預かっていたチーキーは、ナチスの侵攻を前にして、ネガの入った箱をリュックサックに詰めて、自転車で港に向かい、南米に行く船に乗ろうとしている人に託したのでした。

ネガの行方を追っていたキャパの弟、コーネルからの問い合わせに対する、チーキーの返信の言葉を借りるなら、チーキーはネガの入った箱を持って、パリのスタジオからメキシコ行きの船に載せるために、自転車でボルドーに向かった、らしいです。そして、途中で出会ったチリ人にMexican Suitcaseを預けた、とのこと。しかし、ほかの文献などでは、マルセイユに向かった、とか、預けたのはメキシコからの駐フランス大使だったという話もあり、正確なところはわかりません。いずれにしても、自転車でパリから港に向かって、誰かにこれらの箱を渡し、Mexican Suitcaseはめでたくナチスの目を逃れて海を越え、南米に渡った、というのは間違いないようです。

チーキーは、その後、モロッコの収容所に送られ、やがてメキシコに移民として渡ります。以来、メキシコから一歩も出ることなく、2007年1月、メキシコでその一生を終えたのだそうです。奇しくも、Mexican Suitcaseがコーネルの手に渡ったのは、同じ年の12月。チーキーの死からわずか11ヵ月後のことでした。

Mexican Suitcaseをとりまくストーリーのなかで、私が一番関心をもったのが、ほとんど光を当てられることのない、このチーキー・ウェイジという人物です。

キャパの活動と、パリで彼を取り巻いていた人々を紹介する「Robert Capa: The Paris Years 1933-1954」という本を開くと、冒頭に、チーキーが撮影したパリの子どもたちの写真が2点掲載されています。たぶんしゃがみ込んで撮ったのでしょう。そのうちの一点は子どもの目線よりも低い位置から撮影された写真で、ふたりの少女がよそいきの洋服を見せびらかすように得意げに微笑んでいます。

キャパと同じ、ハンガリー生まれのユダヤ人であり、キャパと同じく撮影者でもあったチーキー。託された幼なじみの撮った写真の重要性を知っていたからこそ、それを、おそらく命がけで救おうとしたこの人物が、単に「Capa’s darkroom manager」とか「Capa's assistant」と紹介されているのを見るたびに、心のなかでなにかアンフェアなものを感じてしまうのは、私だけでしょうか。彼がいなかったら、世間の目に触れることのなかったであろう、この写真群を、私はチーキーへの敬意をもって、ぜひ見たいと思ったのです。

さて、写真展では、写真家別にまとめて写真を紹介していて、誰がどれを撮ったのかが非常にわかりやすい構成になっていました。すべての説明文が仏英2ヵ国語で表記されていたのも、ありがたかったです。

戦場写真だけに、当然ながら血まみれで倒れている兵士とか、衝撃的な写真も数多くありましたが、当時の村人の様子や、全壊した建物の傍らで、瓦礫を積み木のように積み上げて遊ぶ子どもたちの写真もあり、戦争が戦闘に加わっていない人々の生活に与えるインパクトまで、伝わってきます。スペイン市民戦争について、スペインのお年寄りは多くを語りたがらないそうですが、後日映画や文献などで知るごとに、ひょっとしたら「語りたがらない」のではなくて、「語れない」のではないかと思ってしまうくらい、混沌とした戦争だったようです。

ネガのベタ焼きの展示がたくさんあって、これをじっくり観たかったのですが、最近、坂道を転がり落ちるように、老眼に向かって突っ走っている私の目には小さすぎて、正直なところ苦しいものがありました。「ああ、虫めがねを持ってくるべきだった!」と何回ため息をついたことかわかりません。なので、ちょっとでも不安を感じる方は、ぜひ、虫めがねを持参されることをおすすめします。

展示写真を通してみて、改めて思ったのは、この3人の写真家は、報道に携わる人、というよりは、やはりファシズムと戦う、カメラを持った政治活動家だったんじゃないかな、ということです。それがいいとか悪いとか、そういうことではなくて、写真というものは目的じゃなくて、手段なのだ、と再認識させられるところが大きかった、というか。非常に興味深い写真展ではありました。

こちら、630日まで、Musée d'art et d'histoire du Judaïsmeにて開催中です。ご興味のある方は、ぜひ足を運んでみてください。そして、写真展に足を運ばれたら、これらの写真の背後に、74年前、港まで自転車を走らせたひとりの人物がいたことも、ちらりと思い出していただけたら幸いです。

さて、パリに来たからには、一応見ておかなければ、ということで、キャパのスタジオのあった場所にも行ってみました。このビルの「セカンド・フロア」にキャパとゲルダは住み、仕事をし、そしてチーキーは、ここから港に向かって自転車を走らせた、ということになります。この場所が、キャパが一生のうちで賃貸した唯一のアパートメントなのだそうです。1階に葬儀屋さんが入っているのも納得で、実はこのビルのお向かいには、道路に沿うように細長い墓地がありました。


キャパやタローがスタジオ兼住居として使っていたアパートメントは、このRue Froidevaux沿いにあります。
これと平行して一本南側には、ダゲレオ・タイプという写真の技法を完成させた
ルイ・ダゲールにちなんだダゲール通りがあるのも、不思議な縁です。

キャパのスタジオがあった37 Rue Froidevaux。スタジオがあったのは、このビルの2nd Floorだったそうです。
(ここでいうセカンド・フロアが3階にあたるのか、2階にあたるのかは不明ですが…)

そして、キャパのスタジオの向かいの墓地ではありませんが、ゲルダ・タローのお墓にも行ってみました。ショパンやモディリアーニやオスカー・ワイルドなど、華々しい面々がどっさりと眠る名門(?)墓地ペール・ラシェーズだけあって、入り口の案内図にゲルダの名前は見つかりませんでした。

でも、墓地のウェブサイトで調べたところ、ゲルダがどの区画に眠っているのかだけはわかっていたので、時間が許す限り、端から見て探してみよう、と思っていたら、意外とあっさり見つかりました。端の方にいてくれて、ありがとう、という気持ちです。

スペイン市民戦争に従軍中に、トラックに轢かれて亡くなったゲルダの遺体は、フランスが国をあげて英雄扱いで運んできたと、ものの本で読んで、どんなお墓がつくられたのだろう、と思ってはいたものの、この派手さのひとつもない静かな墓石、カメラを武器に戦った女戦士にはふさわしいのではなかろうか、と、私の目には映りましたが、どうでしょうか。


とてもシンプルなお墓。鳥のくちばしは朽ちて落ちていました。