11.9.12

アイルランドで考えたいくつかのこと。

分厚い雲がたちこめる西アイルランドのムルラニー。

3年ぶりにアイルランドに「帰って」きた。

前回のアイルランドは、友人も誘ってわいわいと賑やかな旅で、それがとても楽しかったので、この次も…と思っていたのだけれど、夫のかなり無謀な9月のサイクリング計画に、天候も見えず(むしろ雨になる可能性のほうが高い)、天候が見えないので一日の終わりにどこまでたどり着けるかもわからず(だから宿が取れない)、ずっと雨なら、ずっとパブ(下戸の私にとっては最悪)、などというまったくもって先の見えないプランに、友人を誘うことは躊躇した。

前回一緒にアイルランドに来た友だちに「アイルランドに行くことにしたよ」と告げたら、「えーいいなー」と言われたけれど、「でも雨のサイクリングになるか、一日パブだよ」と返したら、「そうなんだ、がんばってね」と、あったかパンツと速乾性のあるズボンを持ってきて貸してくれた。Nちゃん、ありがとう。

というわけで、今回は前半3日間は夫とふたりのサイクリング旅行、後半3日間は親戚三昧の旅となった。サイクリングのほうは、アイルランド西部のメイヨーの端っこにある、ウェストポートという町からアキル島まで、1937年に廃線になったグレートウェスタン鉄道の線路の跡地に設置された「グリーンウェイ」という42キロのサイクリング&ウォーキングルートをたどる、という計画だった。これを3日間で往復するので、単純計算すると一日25キロ〜30キロ走ればよい。

自転車に乗っている間は、ほとんど会話はない。ただひたすら、アイルランドの重い雲と、低い山と、それほど濃くはないけれどしっかりと大地に根をはった緑と、遠くに見える海をながめながら、自転車のペダルをこいだ。

そのどこまでもアイルランドな風景をながめながら、いろいろなことを考えたので、ちょっとだけ書き留めておきたい。長くなりそうなので、がんばらないで、適当にスルーしていただければ幸いです。

こちらもムルラニーで。


アイルランドは、私にとってはかなり特別な土地だ。夫の両親がアイルランドの出身で、子ども時代の夫にとっては夏休みの帰省先だったこともあり、いまだ親しくしている親戚も多い。私も、夫とつきあい始めて彼の親兄弟と会うよりも先に、アイルランドの親戚たちに紹介された(たまたま、いとこの結婚式があって、そこに連れて行かれたのだ)。彼らがその日から線引きもなくファミリーとして受け入れてくれたことは、東京郊外の核家族で育った私にとっては、ある意味衝撃だった。そんなこんなで、ここ15年ちょっとの間に、私にとってもアイルランドは「行く」のではなく「帰る」という感覚を伴う場所になった。

夫の親戚にも一様に言えることだけれど、アイルランドの人々は、とにかくおせっかいなほど親切であたたかい。空港のインフォメーションのおばちゃん(中年女性、というよりあえて「おばちゃん」と呼びたい)が、「あら、バスの時間? 次のまで4時間くらいないわよ。タクシー呼ぶ?」と、この最後の「タクシー呼ぶ?」がついてくるのがアイルランドだなぁと思う。レンタルサイクルのお店で、「かごのついてる自転車? うーんうちでは置いてないなぁ…。あ、売り物のかごだけど、これつけていくか?」と「€35.99」と値札のついたままのかごを、私の借りた自転車の前につけてくれる(私が返したあと、これ売るのだろうか、という疑問も一瞬よぎったけど)。高級ホテル、とされている宿泊先のレストランでも、ステーキの大きいこと。

ロンドンだったら、空港のインフォメーションで、バスの時刻表はくれるかもしれない。でも「タクシー呼ぶ?」とは聞いてくれない。レンタルサイクルの店では「うちではかごのついた自転車はありません(以上)」だろうし、高級レストランの食事が大盛りだった試しはない。

私の知っているアイルランドには(もちろん、ダブリンのような都市部では少し事情は異なるとは思うけれど、少なくとも西アイルランドの田舎の町では)、ロンドンや東京といった、いわゆる「大都市」では定番の「とりすましたスマートさ」、みたいなものはあまりない。むきだしの、というか、洗練されていないホスピタリティなんだなぁ…と、ふと、そこで、それなら「洗練」ってやつは、いったいなんなのだろう、と考えてしまった。

「洗練されたおもてなし」とか、「洗練されたお料理」とか、もっと言えば「あの人は洗練されている」とか、まるで「洗練」がひとつのクオリティ(特質)であるかのように扱われることすらあるけれど、「洗練」そのものはクオリティではないはず。先になんらかのクオリティがあって、それを文字通り「洗って練って磨く」ことに過ぎない…はず。

なにが言いたいかというと、ホスピタリティのないところに、「洗練されたホスピタリティ」はありえない、ってことなのだ。そもそものホスピタリティがないくせに、洗練だけ追い求めようとしたって、かたちばっかりで中身のないものになってしまうのは、当然だろう。ラッピングだけが見事な空き箱みたいに。長たらしい名前のついた凝ったソースだけが売りのお料理のように。ロンドンや東京は、そういう例で溢れていると思う。

無難にホスピタリティについてだけ、触れたけれど、自戒の意味も込めて敢えて言うなら、それって実はホスピタリティだけじゃない、と思う。センスとかスキルとか、目に見えるものも見えないものも、みんなそう。洗練された美しい言葉で綴られた履歴書が、どれだけその人を幸せにしてくれるだろう。追い求めるのは洗練じゃない。先にクオリティありき、なのだ。きれいにまとめることだけに気をとられて、本質を見失ってやいないか、または他者のなかにある原石が、ちゃんと自分の目に見えているのかどうか、自問してしまう。自分は大丈夫なのか、と。

そんなふうに、ふだん意識せずに過ごしていることに、ドキっとさせられたことはほかにもあった。

たとえば、自転車で走っていても、歩いていても、すれ違う人が一人残らず、挨拶してくれること。挨拶されたことにドキっとしたのではない。それに戸惑う自分にドキっとしてしまったのだ。東京でもロンドンでも、知っている人にしか挨拶しない生活に慣れきっている私にとって、前から歩いてくる人に「ハロー」と言われるなんて、想定外のこと。前から人が来た、知らない人だ、と認識した瞬間に、自分のなかでその人は風景の一部に変わってしまっていたのかな、と。自分のすごく傲慢な一面を見てしまったような気がした。

というのも、これと同じことを、どこか地方出身の知り合いに指摘されたことがあったのを思い出したのだ。ロンドンの人は、人を人とも思ってない、そのへんのものと同じように目に映っているだけだ、って。そのときは、ピンと来なかったのだけれど、ああ、こういうことを言ってるんだなって、今回初めてわかったような気がした。確かにこういう場所で育った人にとって、誰も自分を見ることも、自分に注意を払うこともせず、ただ素通りしていくだけのロンドンの街は、さぞや寂しいことだろう。

と言いながら、自己弁護するわけじゃないけれど、私はそんなロンドンが嫌いじゃない。むしろ誰にも注意を払われないことが快適だったりする。これはどっちが正しいとか、どっちが冷たいとかじゃなくて、ものすごく個人的な人との距離の置き方の違いだけなのだろう、と思う。通り過ぎていく車さえ、片手を上げてくれるアイルランドも素敵だとは思うけれど、それじゃあ、明日からいきなりキングズ・クロスの駅で、すれ違う人みんなに挨拶をするかというと、私はしない。

ただ、いままでと同じように距離を置きつつも、すれ違っていく人も、そこで電車を待っている人も、みんな人なんだなぁっていうのは、ちょっと頭の片隅に置いておきたいと思う。決して風景のなかの「もの」ではないんだと。

この人との距離の置き方と関係性について、アイルランドで感じたことをもうひとつだけ書く。これが最後だ。

冒頭に書いたように、私にとっては、96年に夫と一緒にいとこの結婚式に出席したのが、アイルランドのファミリーとの出会いだった。そのとき、一番最初に一番強烈な印象を私に植えつけたのは、当時60代だった夫のおばさんの一人で(正確には夫の母のいとこの妻。かなり遠い存在に聞こえるが、アイルランドではみんな一様にファミリー)、「G(夫)のガールフレンドかい?」と私を見とがめるなり、突進してきて、ものすごい怪力でハグされた。そのときの私は、アイルランド・アクセントの英語を半分も理解できず、勝手に孤独を感じていたところもあったのだが、この怪力ハグの洗礼は、私の体の表面に貼り付いていた緊張をむしり取って引きはがして、ビリビリに破いて風に飛ばしてしまうくらいの勢いがあった。

その後そのおばさんの息子のKが「ごめんね、うちのお母さん、いい人なんだけど、キャラが強くて」と言いにきた。このKと夫の顔がそっくりで、あとから「あなたとKってそっくり。やっぱり血がつながっているのね」と言うと、「いや、Kは養子だから血はつながってないんだよ」と言われて驚いた。「あと、IもMも養女なんだよ」と。

KもIもMも私たちと同年代だ。妊娠中絶が合法でないことも理由のひとつだとは思うけど、私たちの年代の養子縁組は少なくない(妊娠中絶が合法でないために、子どもを育てられない境遇の女性も出産はするため)。KもIもMも、子どものできない夫婦の養子として、乳児の頃に引き取られた例である。IとMは別々の家からもらわれてきた血のつながらない姉妹だが、本当に仲がいい。Mは最初の夫との間に二人の子どもに恵まれたが、Iは子どもができず5年前にやはり養子をとった。

Iの父で今年92歳になるおじさん、おじさんの娘として育てられたI、Iの息子として家族の一員となった小さなR。血のつながらない親子三代が、キッチンで肩を寄せ合いながら、携帯で撮った写真をのぞきこんでいる。愚鈍なほどの実直さで、血のつながりがある親子も、そうでない親子も、毎日同じように淡々とその関係を保ち、毎日を重ねていく。アイルランド人の血には「甘んじて受け入れる」DNAが組み込まれているんじゃないかとすら思ってしまう。

それは、この分厚くて重い雲の下で、しっとりと湿った空気と、ターフ(泥炭)を燃やすにおいのなかで、培われてきた気質なのだろうか。それとも彼らがよりどころとしているカトリックの精神によるものか。いずれにしても、そこには、引き継がれて連綿と続いていくなにかがある。

夫の母が姉妹同然に育ったいとこのひとりで、今年87歳になる元修道女のMおばさんは、今回、夫の顔をまじまじと見てこう言った。「来てくれてうれしい。あなたを見ていると、ラブリーなナンシー(夫の亡母)とトミー(夫の亡父)を思い出す」と。

今回は会えなかったけれど、私に怪力ハグをプレゼントしてくれたおばさんは、ここ数年認知症が進みケアホームで生活している、と聞いた。その息子のKには昨年娘が生まれ、ちょうど新しい家に引っ越した翌日に会うことができた。

Iの妹のMは、ふたりの子どもを連れて、現在一緒に生活しているパートナーとつい先日婚約した。パートナーの側にも前妻との子どもがひとりいて、子どもたちは急に兄弟が増えることになった。

すでに失われてしまったもの。いまここにあるもの。これから生まれてくるもの。その流れをとどめることは誰にもできない。

アイルランドにいると、大地から生まれて、生きて、老いて、死んで大地に還っていく、という、都会の生活で忘れられてしまったかのような、ごくごく基本的な約束がとても身近に感じられる。それはシンプルさを強調する流行でもファッションでもない。自然の摂理の一部として、いままでもこれからも、私たちを巻き込んで普遍的にまわりつづけるものなのだ。

雲が何層にもいろんな高さで重なっている。たまたま晴れ間が見えたときは、気が遠くなるほど美しい。

2 件のコメント:

  1. ユケム11/9/12 11:14

    お久しぶりです!
    私、荒川静のスケートで有名になった「ユー・レイズ・ミー・アップ」について色々知るようになるまで、アイルランドはスコットランドみたいにイギリスの一部だと思っていました。ホンの数年前の事です。おばさんなのにお恥ずかしい…

    この記事の文章や写真のトーンのせいかしら、シークレットガーデンの「ユー・レイズ・ミー・アップ」が入ったCDのライナーノートだだったかで、アイルランドのじゃがいもの大飢饉について読んだのを思いだしました。

    血のつながりのない人たちが自然に寄り添って生きる事ができる風土って、歴史のせいかなとちょっと思いました。

    …記事のテーマからずれてますね。コメント残すのが下手なので読み逃げ御免ですが、ブログの更新、いつも楽しみにしています!

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    1. ユケムさん、お久しぶりです。コメント残してくださって、どうもありがとうございます!

      私のほうは、この「You raise me up」っていう曲、ぜんぜん知らなくて、いま、Youtubeで見てきました。アイルランドの音楽って、すてきですよね。うちの夫の家族が集まると、誰からともなく歌い出し、大合唱になるのを聴いているのが、私すごく好きでした。

      アイルランドのファミリーを見ていて、すごいなぁと思うのは、彼らって決してほかの価値観を知らないわけじゃないってことなんですよね。多くの人が、ロンドンやらNYやら、違う土地に住んで、それでもなお、ここに帰ってきてここでの生活を淡々と重ねていることにも感心してしまうのです。歴史のせいなのでしょうかね。解き明かしてみたいことのひとつです。

      ユケムさん、いつも読んでくださってるんですね。すみません。ほんと感謝。読んでいただけるだけで、とてもありがたいです。

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