28.11.12

Ode to My Family

人の記憶の引き金、というのは、本当のところ、どこに潜んでいるのかわからない。

夕食のあと、なんとはなしに見ていたFacebookに、知人が出張先のドバイの夜景の写真を載せていた。「宝石を見ていたら、(知らない)おじさんにニーハオと話しかけられて、なぜか早く結婚するように説かれた」と書いていた。その夜景と文章を見ていたら、なんだか心の中のなにかに重なるものがあった。それがなんなのかは釈然としない。けど、気持ちは海を越えて、新宿の夜景のなかを歩きまわり、過去の記憶をノックし始める。

考えてみたら、予兆はあったかもしれない。

先週、父の命日があり、その前日に若い頃にお世話になった方が、父と同じ69歳で亡くなったことを知った(69歳。若い。70を超えるまで死んじゃいけない、っていうきまりをつくってほしいくらいだ)。アメリカに住む夫の親戚から、大昔にアイルランドで撮影したらしい夫の父親の若い頃や祖父、曾祖父、曾々祖父の写真が送られてきた。今日は、夫の弟から、彼が自宅でレコーディングしたCDが送られてきた。夫が25年以上前の自分の写真をどこかから見つけてきた。

記憶は、新宿の夜景から、ターフのにおいのするアイルランドをめぐり、夫の生まれ故郷であるバーミンガムの湿った空気のなかで立ち止まる。夫が見つけてきた古い写真のなかには、黒々とした髪の毛の若者がいる。「男の人が禿げちゃうのって、悲しいわよね」とは、夫の母親の葬儀のときに読み上げられた、彼女の名言をつづった詩のなかの一節だ。しんと静まった教会のなかに、くすくす、という笑いがもれた一瞬だった。

10年前のその日、私は東京にいた。中学の卒業20周年の大同窓会があって、それに出席するために4日間ほどの短い里帰りをしていたのだ。懐かしい顔に久しぶりにあって、とても楽しい時間を過ごして帰ってきた私を出迎えに、夫は空港に来てくれた。彼が「悪い報せがある」と言ったのはタクシーに乗り込む直前のことだ。「お母さんが亡くなったよ」と。

義母は、決して元気いっぱいの健康体、というわけではなかったけれど、特にひどい病気をしていたというわけではない。ただもともと心臓が強いほうではなかった。

あの年代のアイルランドの女性たちの大半がそうであるように、彼女も典型的なカトリック教徒だった。その日もふだんの日曜日と同じように、午前中にひとりバスに乗って、ミサに出席するためにいつもの教会に向かった。ひとつふだんと違ったのは、教会の前で倒れて、ミサに出席することがかなわなかったことだ。彼女はそのまま、神父さんの腕のなかで亡くなった。

私が義母と過ごした時間というのは、本当に限られたものだったと思う。知り合ってから5年ほどの間に、年に2、3回、バーミンガムに帰ったときに一人暮らしの彼女のフラットに訪ねていくだけ。私たちは当時から義妹の家に泊めてもらう習慣だったので、義母の元に訪ねて行くといっても、毎回2時間くらいのものだった。一番長くてもクリスマスのときに義妹の家で半日くらい一緒に時間を過ごすだけ。アイルランドの訛りがきつくて、当時の私には彼女の英語が半分くらいしかわからなかったというのもある(それを夫に言うと、訛りとは関係なしに、自分にも言ってることの半分くらいしか意味がわからないから、心配しなくていい、といつも言われたけど)。

子どもたちの間では、「お母さんは変わってるから」という空気があったのは、否めない。でも言葉もろくにわからない外国人の私にとっては、あたたかい義母だったと思う。クリスマスの暖炉の前で、お酒を一滴も飲めない私が「少しはお酒が飲めたら楽しかったのに」と言ったら、「お酒が飲めなくても人生を楽しめるのなら、お酒なんか飲む必要ないのよ」と真顔で言われたのをよく覚えている。

まだ乳児の頃に、家族全員がアイルランドから英国に移住することになったのに、なぜか、叔母(義母の母親の姉)のもとに預けられ、ひとりだけアイルランドに残った義母。そのまま叔母の家で、従姉妹にあたるその娘たちと姉妹同然に育てられたのに、13歳の年に突然、英国の実の家族のもとに連れ戻されたのだという。育ての親である叔母や従姉妹たちは、義母と突然離れることになり、胸を引き裂かれる思いだった、と、いまだにアイルランドに帰るたびに聞かされる。彼女たちの語る「かわいくて頑張り屋だったナンシー」と「ちょっと変わってるお母さん」の間の温度差がなんなのか、きっとどこの家でもそうなのかもしれないけれど、家族というのは、永遠の謎ではある。

今日、自分のコンピュータのなかを探したら、義母の葬儀のときに読み上げられた、前述の詩の全文が出てきた。彼女が亡くなる数年前に一時期入院していたことがあって、そのときに病院で出会った地元の詩人が、義母の言葉がおもしろい、と詩にまとめたものだという。彼女の言葉を集めたものだから、当たり前といえば、当たり前なのかもしれないけれど、義母という人を、端的によく表していると思うので、ここでも紹介したい。

   ◇◇◇


‘’Anne’s Poem’’ by David Hart

I’m like a spider, you know, when I write.

Washing on the line without pegs
Would be really amazing, the difference.
If you put your clothes on the hedges
the clothes would be alive with earwigs.
They can get into your ears, apparently.
I had an uncle who could talk the hind legs
off a donkey and move on to another one.

Fancy a cup of tea, poet?

It’s a shame men go bald, isn’t it?

When I close my eyes:
green fields and a blue sky.

Tom and Jack went out an brought in
a bottle of sherry, and Maura and me
we sat there and drank every drop.

Roses we were very fond of.
Wild Woodbine is delicious.
And Night-Scented Stock.

Woolworth’s was a halfpenny shop.
You could come into Birmingham
on a bus for a penny.
There were trolley buses along the Coventry Road,
trams on the Bristol Road
to the Lickey’s and those places.

A Brummie’s breakfast
was a cup of tea and Woodbine.

I liked Cerrigeen Moss with custard.
Blackberries? With little white worms inside?
It could have been a Friday
and you couldn’t eat them.
So there, that’s it.

ーーー
アンの詩(デイヴィッド・ハート)

私って蜘蛛みたいなのよ、知ってた? 書いた文字がね。

物干しに洗濯ばさみなしで吊された洗濯もの
きっと、その違いにはびっくりするわよ。
服を垣根の上にのせておいたら、
ハサミムシのせいで、生きてるみたい。
ハサミムシ(※1)って耳に入ってくるらしいわよ。
うちのおじさんっていうのは、
ロバの後ろ脚が折れちゃうくらいのおしゃべりで、
ずーーーっと話し続けられる人なのよ。

紅茶はいかが、詩人さん?

男の人が禿げちゃうのって悲しいわよね?

目を閉じれば
緑の野原と青い空。

トムとジャックが外に出て、シェリーを買ってきてくれて、
モーラと私は、ただそこに座って、最後の一滴まで飲んじゃった。

私たちが大好きなバラの花。
スイカズラは、とってもおいしい。
あと、夜に香るストックも。

ウールワース(※2)は、ハーフ・ペニー・ショップだったのよ。
バーミンガムにだって、1ペニーで
バスに乗って行けたのよ。
コベントリー・ロードには、トロリーバスがあって、
ブリストル・ロードには、トラムが
リッキーズとかその辺のところまで走ってた。

バーミンガムっ子の朝食は、
紅茶とスイカズラだったの。

ケリジーン・モス(※3)とカスタードが大好きだった。
ブラックベリー? 白くて小さいミミズがついてるでしょ?
あれは金曜日だったのかしら
食べられたもんじゃないわ。

だからね、まぁ、そういうことよ。

※1 英語のハサミムシは「earwig」で耳(ear)に入ってくるという義母の説らしい。
※2 文房具や子ども服などを扱っている英国のチェーン店(数年前に倒産)。
※3 海草の一種。

   ◇◇◇

「若いというのは、それだけで美しい」と最初に言ったのはだれだったのか。いままでずっと、心のなかでそれに反発してきたけれど、やっぱり、男の人が禿げちゃうのって、悲しいわよね、お義母さん?

若かりし頃の夫。黒髪に天使の輪ができてる(涙)。


27.11.12

森の冬じたく。

ここ最近、雨が降っていない限り、毎日近所の森を歩いたり走ったりしています。

この一カ月の森の変化というのは、本当に激しく、その姿がすっかり別のものに変わってしまいました。

一カ月前の森はこんな感じだったのですが…。
(それぞれの写真をクリックしていただくと、ちょっと大きめの画像をご覧いただけます)

まだ木の葉っぱが青々としています。

こちらが先週末の姿です。葉っぱが落ちて、すっかり裸んぼうになってしまいました。


まん中の上部に鳥の巣があるのがわかるでしょうか。

木に葉があるうちはわからなかったのですが、道のまん中あたりの上のほう、ずいぶん細い枝の集まっているあたりに、まるでもつれた髪の毛みたいな鳥の巣があります。

いまにも、ポキッ、ぽてっ、と落ちてきそうな感じです。

気になったので、今朝も見てみたら…。

あいかわらず、もつれた髪の毛みたいな巣が。

まだちゃんとそこにありました。ひとごとながら、ほっ。

森のなかでは、犬たちもリードをはずしてもらって、好き勝手にお散歩中。さかさか走り回る子もいれば、のんびりあたりを見回しながら歩く子もいて、見飽きることがありません。

森を巡回中のチャーチルくん(勝手に命名)。

まるまる太ったリスたちは、冬じたくにいそがしいのか、せっせと動き回っています。

子どもが押さえられているのをいいことにカサコソカサコソ。

現在ロンドンで見られるリスは、アメリカから渡ってきたハイイロリスで、冬眠をしない、と聞いたのですが、それでも冬に備えて食料のあるうちに「食いだめ」しておくのでしょうか。

お犬さまが来たので、向こうを向いているうちにカメラのフレームの外側へと猛ダッシュ。

ロンドンのリスの特徴なのかもしれませんが、人が来てもすぐには逃げず、まず、その人が餌をくれそうかどうか、ちょっと近づいてくる傾向があるように思います。くれなさそうだ、と判断すると、すぐにぱーーーっと遠くに行ってしまいます。動物は「現金」です。

なんか、におう、におうわっ、と振り返っても、もう誰もいない。

と、以上、いま時期のロンドンの森の風景でした。





20.11.12

セシル・ビートンの戦場写真展

先日、「1111に思う。」というポストで、帝国戦争博物館で開催中の「セシル・ビートンの戦場写真展(Cecil Beaton: Theatre of War)をご紹介しましたが、こちらの展示作品のなかから、広報用の写真を数点お借りすることができたので、改めてご紹介します

詳細は前回のポストに書きましたが、ビートンは、1939年から1945年にかけて、英国情報庁からの依頼で、英国内、そして、エジプト、リビア、イラン、イラクといった中東、インド、ビルマ、中国と多くの戦場に赴き、合計で7000枚もの写真を残しているのだそうです(詳細については、こちらのポストをご覧ください)。


ハロゲイトから出航する英国人水兵 1941年
Part of IWM’s “Ministry of Information Second World War Official Collection” 

By permission of IWM (Imperial War Museums)


ロンドン、ブルームズベリー・スクエアの爆撃による被害 1940年
Part of IWM’s “Ministry of Information Second World War Official Collection” 
By permission of IWM (Imperial War Museums) 


爆撃で壊されたロンドン、ギルドホールのセント・ローレンス・ジューリー教会 1940年
Part of IWM’s “Ministry of Information Second World War Official Collection” 
By permission of IWM (Imperial War Museums) 

崩れ落ちた屋根の瓦礫の撤去。ロンドン、チープサイドのセント・マリー・レ・ボウ教会 1940年
Part of IWM’s “Ministry of Information Second World War Official Collection” 
By permission of IWM (Imperial War Museums) 

ハーバー・ローンチ・ボートの乗組員と働く英国海軍女性部員。ポーツマス 1942年
Part of IWM’s “Ministry of Information Second World War Official Collection” 
By permission of IWM (Imperial War Museums)

第92(西インド)中隊、バトル・オブ・ブリテンのパイロット、空軍将校ネヴィル・デューク。
自身の戦闘機スピットファイアと。英国空軍ビギン・ヒル飛行場にて 1941年。
戦後、デュークは英国を代表するテスト操縦士となり、1953年には世界最速航空記録を打ち立てた。
Part of IWM’s “Ministry of Information Second World War Official Collection” 
By permission of IWM (Imperial War Museums)

武装した商業用クルーザーHMS アルカンタラ上で、シグナル用の旗を直す水兵 1942
Part of IWM’s “Ministry of Information Second World War Official Collection” 
By permission of IWM (Imperial War Museums) 

エジプト、カイロ 1942年
Part of IWM’s “Ministry of Information Second World War Official Collection” 
By permission of IWM (Imperial War Museums) 

砂漠巡回の終わりに本部にもどってきた長期砂漠挺身隊の男性たち。リビア、シワ 1942年
Part of IWM’s “Ministry of Information Second World War Official Collection” 
By permission of IWM (Imperial War Museums)

リビア、トブルクの消防署を襲った爆撃の被害 1942年
Part of IWM’s “Ministry of Information Second World War Official Collection” 
By permission of IWM (Imperial War Museums) 

タインサイドの造船所で働く溶接工 1943年
Part of IWM’s “Ministry of Information Second World War Official Collection” 
By permission of IWM (Imperial War Museums)

中国、四川省、成都の警察本部の本部長と彼の部下たち 1944年
Part of IWM’s “Ministry of Information Second World War Official Collection” 
By permission of IWM (Imperial War Museums)

このほかにも、すばらしい写真が数多くありました。
写真展は、来年1月1日まで開催中です。機会がありましたら、ぜひ足を運んでみてください。

IWM London
Lambeth Road, London SE1 6HZ
http://www.iwm.org.uk

19.11.12

日曜日のローカル散歩。

ここ2週間ほど、朝ランのあとに、近所のギリシャ人ファミリーの経営するグローサリーに寄って帰ってくる、というのが日課と化しています。

なぜ、毎日このグローサリーに寄ってしまうかというと、最近このお店、私の気に入っているお豆腐を売り始めたのですが、残念なことに入荷が不定期で、毎日入ったかどうかチェックするためにのぞいては、フルーツとか野菜とか豆類とか、なにかしか買ってしまう、というわけなのです。おそらく今ごろ、「トーフ・ランナー」とかなんとか、あだ名されていることと思います。

さて、そんな前置きはともかく。

先日、例によってこのグローサリーに寄ったら、レジのところで、「ローカル・イベントがあるから、よかったら」と、こんなチラシをもらいました。

一日持ち歩いていたので、ちょっと「くしゃくしゃ」ですが(ゲスト出演:先日のマグカップ)。

クラフト好きな私としては、心惹かれるイベントです。でも地元でありながら、「アベニュー・ハウス」なんて、聞いたこともありませんでした。地図で調べるとうちから歩いて20分ほどの距離。お散歩には最適の距離です。

そこで、寒いけれどぴりっと気持ちよく晴れた日曜日、カメラにフィルムを入れて、いそいそと出かけてきました(と言いつつ、フィルムはまだ現像してませんので、こちらの写真はiPhoneで撮影したもののみです、すみません)。

このアベニュー・ハウス、調べてみると、1874年にヘンリー・チャールズ・スティーブンスという人物に買い取られたそうなのですが、このヘンリーさんのお父さん、ドクター・ヘンリー・スティーブンスという人が、まずちょっとすごい人だったようなのです。

発明家でもあったドクター・スティーブンスは、英国が誇る詩人、ジョン・キーツと医大時代の同級生で、それまでなかった耐久性のあるインク「ブルー・ブラック・ライティング・フルイド」、つまりブルーブラックのインクを発明したその人なのです。

そのビジネスは、息子さんであるヘンリー・チャールズ・スティーブンスに引き継がれ、商業ベースにのせたことから、彼は地元では「ヘンリー・インキー・スティーブンス」と呼ばれていたようです。このインクは、政府の公式文書を書くためのインクにも指定されたとのこと。それまで事務仕事のときに行われていた、インクを混ぜ合わせたり、ペン先を掃除したり、という作業を一蹴する、革命的なインクだったらしいです。

インキー・スティーブンスは、フィンチリー地区出身の保守党の国会議員となり、地元のために尽力。さらには、ウィルトシャーに英国で唯一のプライベートの水道会社までつくってしまった、お父さんを上回る大物だったようです。

このアベニューハウスは、そんなインキー・スティーブンスが、地元住民のために遺したもので、彼が亡くなってから約10年後に一般に公開されるようになったとのこと。現在もこの家のなかに、スティーブンス・インクに関する資料室がありました。

こんなふうに古いインクが並んでいます。

展示品を見ているだけでも楽しくて、小さな一室なのに、かなり時間を費やしてしまいました。クラフトフェアそのものも楽しかったのですが、この資料室は、ちょっと宝物を探し当てたような気分にさせてくれる空間でした。

この日は、ウーマンズ・インスティテュートによるティールームも併設されていました。

アベニュー・ハウスには、すばらしいガーデンがあって、ここも一般に公開されています。これ以上平和な光景があるだろうか、というくらい、ほのぼのとした冬の日曜日の風景です。

ボランティアで落ち葉集めをする人々。

イーゼルを立てて、絵を描く人も。

ボールを蹴る子ども、フリスビーを投げる人もいました(実は「ボール遊びは、禁止」と書いてありましたが…汗)。

この広大な庭の向こう側に見えるのがアベニュー・ハウスです。

もう10年以上、この地域に住んでいるのに、やはり知らないことはいっぱいあるんだなぁと、新しい発見にわくわく。帰りは、以前にこのブログでもご紹介した、フィンチリー・セントラルの辰巳屋さんに寄って、内容たっぷりのお弁当を買って、ほくほくと家路につきました。

お天気もよくて、いつまででも歩いていられるような、なかなか楽しい冬の日曜日のお散歩でした。

一日の締めくくりに、見事な夕焼けのあとにあらわれた三日月。

Avenue House
17 East End Road,
London N3 3QE
http://www.stephenshouseandgardens.com/



15.11.12

アーサー王ゆかりの地からやってきたマグカップ。

今日、キッチンに仲間入りしたマグカップ。

イギリスには、「チャリティ・ショップ」と呼ばれるセカンド・ハンドの洋服や品物を売るお店が、いたるところにあります。ホームレスをサポートする慈善団体、ガン患者をサポートする慈善団体など、チャリティの組織によるショップで、各家庭の不要品を持っていくと引き取ってくれて、それを売ってその慈善団体を支える資金の一部にする、というショップです。

私の家の近くの商店街にも、北ロンドン・ホスピスをはじめとする、慈善団体によるチャリティ・ショップが3軒ほどあります。

こまめにのぞいていると、ときどき「おっ♡」と思ういいものもあって、なかなか侮れないのですが、私自身はとにかく家が狭いため、ものを増やすことができないので、不要品を持っていく一方で、いままで買い物をしたことは、本当に一回くらいしかありませんでした。

ところが、今日、本当になにげなく、このチャリティ・ショップをのぞいていたら、ちょっと心を惹かれるマグカップを発見。ぽってりとした焼き物のカップで、大小ふたつ、おそろいの絵が描いてあります。

ひっくり返して見たら、制作者のシールがついたてづくりの新品で、なんとコーンウォールのティンタジェルでつくられたものでした。

コーンウォールのティンタージェルからやってきたようです。

コーンウォール地方は、陶芸家の窯が多く集まっていることでも有名です。民芸運動で知られている、バーナード・リーチの窯もコーンウォールのセント・アイブスというところにあります。

ティンタジェルというのは、コーンウォール地方の北東部にあり、6年ほど前に、女性誌の「ファンタジーゆかりの地を訪ねる」という企画で、一度取材に行ったことがあります。

ティンタジェルには、ティンタジェル城というお城があり、城のふもとにある洞窟は、アーサー王が生まれた場所、ということになっているらしいのです。その洞窟は、なかに入ることができて、薄暗がりのなかに、うっすらとさしてくる光が最高に美しく、冬の寒風ふきすさぶなかでの、まるで軍隊のブートキャンプかと思うような過酷の取材のなかで、心洗われる思いだったのを懐かしく思い出しました。

チャリティ・ショップで、このカップを手にとったら、ティンタジェルでの風景がぶわっと頭のなかを横切って、ふだんだったら絶対買わないくせに、ふらふらとレジに持っていって、お金を払ってしまったという次第です。

もしも、コーンウォールに行かれる機会がありましたら、ぜひティンタジェル城にも足を運んでみてください。私もぜひ、また(お仕事じゃなく)訪れたい場所です。

イングリッシュ・ヘリテージのティンタジェル城のウェブサイトはこちらです↓
http://www.english-heritage.org.uk/daysout/properties/tintagel-castle/

12.11.12

1111に思う。

11月11日は「英霊記念日」で、英国人にとっては大きな意味を持つ日です(詳細は昨年のこちらのポストをご覧ください)。日本の8月のように、この季節になると戦争映画や、戦争に関するドキュメンタリーが、テレビでも多く放送されます。

特にこの英霊記念日を意識したわけではなかったのですが、ここ1、2週間で、私も戦争関連のイベントにふたつほど行ってきました。

ひとつめは、写真家ロバート・キャパと、デイヴィッド・シーモア、そして女性写真家のゲルダ・タローが、スペインの市民戦争中に撮影した4500枚のネガの入った箱に関する映画「The Mexican Suitcase」の上映とこの映画を製作した監督の質疑応答というイベントです。


The Mexican Suitcase trailer from 212BERLIN on Vimeo.


70年の時を経て、2007年にメキシコで見つかったこの箱こそがタイトルの「メキシカン・スーツケース」。これは、映画のあとの質疑応答で、監督が話していたことなのですが、キャパの死後も、弟のコーネルがずっと探していたこの一連のネガは、もともとパリのキャパの暗室にあったもので、ナチスの侵攻を察知した、キャパの現像師チーキー・ウェイジが暗室を引き払う際に、すべてをかき集めて箱に入れ、メキシコに帰ろうとしていた大使に託したもの、なのだそうです。

これほど大切なものを、また大切なものだからこそ、手元に置いておけず、人の手に託さなければならなかったチーキーの心情はいかばかりなものだったのでしょうか。「夜になるまえに」という映画で、レイナルド・アレナスが自国キューバでは決して出版できないため、海外に出国する人に自分の大切な原稿を預ける、というシーンがあったのをふと思い出したりしました。

チーキーはその後、北アフリカの収容所に送られ、そこからメキシコに渡り、パスポートを発給してもらえなかったため、以降国外に一歩も出ることなく、その生涯をメキシコで終えたのだそうです。もちろん、キャパと再会することも叶わないままに。

この発見されたネガの写真展は、キャパの弟コーネルが亡くなる前に、NYで開催され、その後ツアー中だそうです。来年の2月にはパリに来るそうなので、ぜひ見に行きたいと思っています。

さて、この「Mexican Suitcase」に続いて、行ってきたのが帝国戦争博物館で開催中の、セシル・ビートンの戦場写真展(Cecil Beaton: Theatre of War)です。
(こちらの写真展で展示されている写真の一部を広報用に貸していただいたので、別ポストとして、まとめて、ご紹介しています。どうぞこちらもご覧ください。2012/11/20追記)

写真展のリーフレットと、写真展の内容を収めた写真集からの1ページ。

セシル・ビートンといえば、私にとっては、「マイ・フェア・レディ」の衣装デザイン、ヴォーグなどのファッション・フォトグラファー、エリザベス女王の戴冠式の公式写真、といった、蝶よ花よのキラキラ華やかな印象が強く、「戦場写真」とはにわかに結びつきがたいものがありました。しかし、1939年から第二次大戦が終わる1945年までの長きにわたって、英国情報庁からの依頼で、英国内だけではなく、エジプト、リビア、イラン、イラクなどの中東、インド、ビルマ、中国と多くの戦場を渡り歩き、7000枚もの写真を残しているのだそうです。

写真展は、時系列にビートンのキャリアを追うようにデザインされていて、今回、私もはじめてセシル・ビートンという人の人生を俯瞰することができました。もともとは、衣装とか舞台のデザインをしたくて、劇場関係の仕事につきたかったこと。でも劇場関係の仕事では生活できず、趣味の写真を仕事にして生活費を稼いでいたこと。次第に写真家としての名声を得てしまったものの、そこには葛藤があったこと。反ユダヤ主義的な彼の落書きがヴォーグ誌に掲載され、大スキャンダルとなり、コンデナスト社から契約を切られてしまったこと。知らなかったビートンの人生が、作品とともに開かれていきます。

そんな折りにやってきた、戦場写真の仕事は、ビートンにとっては、まさに人生の新しい一ページだったんじゃなのかなぁと、ふと考えてしまいます。戦場写真といっても、ビートンの作品のまん中にあるのは、やはり「人」で、多くの魅力的な表情がありました。戦場でも、人はこんなふうに微笑むことができるのか、というものまで。ポートレートを撮るために生まれてきたんじゃいか、と思うような、すばらしい作品を撮るビートンが、実は写真家である自分に違和感を感じていた、ということがあまりにも皮肉です。

こちらの写真展は、来年1月1日まで開催中です。機会がありましたら、ぜひ足を運んでみてください。

IWM London
Lambeth Road, London SE1 6HZ
http://www.iwm.org.uk

最後に、11月11日といえば、ちょうど東北の大震災から1年8ヵ月、ということで、この日は、TERP(Tohoku Earthquake Relief Project)とSakura Frontが共催する震災イベントに行ってきました。TERPは、英国から震災復興支援を行う団体をつなぐプラットフォーム的な活動を展開している団体で、また、Sakura Frontは、被災地の桜の植樹のために桜のブローチを作成、販売するロンドン在住のデザイナーによるプロジェクトで、活発に活動されています。

イベントでは、冒頭に「The Tsunami and the Cherry Blossom(←クリックしていただくと、トレーラーに飛びます)」という昨年のアカデミー賞ドキュメンタリー部門にノミネートされた、英国人女性監督の製作した映画が上映され、また、宮城県知事による震災直後から現在、そして未来に向けた復興に関するプレゼンテーション、そしてパネルディスカッションがありました。

映画は、津波と日本人のメンタリティのなかにある、桜にまつわるセンチメンタルな部分を結びつけたドキュメンタリー作品でした。もしも機会がありましたら、ご自身の目でご覧になって、判断していただけたら、と思います。

今回のイベントを主催したTERPは、ロンドンから支援活動を行う団体の連絡係的役割を担っているそうです。英国にお住まいの方で、ボランティア活動したい、でもなにをしていいかわからない、という方は、TERPのウェブサイトやニュースレターに、ロンドンで活動している多くの団体に関して書かれていますので、ご参考にされるといいかもしれません。

会場に入場する際に、「Sakura Front」のブローチをいただきました。とても繊細で美しいブローチです。

右が、この季節になると英国人の多くが胸につけるポピー。
左が、Sakura Frontの販売しているブローチです

そんなわけで、いろいろと考えさせられた11月11日でした。

最後に、セシル・ビートンの写真展の入口のところに掲げられていた、ビートンの言葉を…。

This war , as far as I can see, is something specifically designed to show up my inadequacy in every possible capacity. It's doubtful if I'd be much good at camouflage - in any case my repeated requests to join have been met with, 'you'll be called if you're wanted.' What else can I do?

Cecil Beaton, September 1939

戦争は、戦っても戦わなくても、震災は、被災してもしなくても、やはり大なり小なり、みんなが傷つくものなのだと、そんなことを思いつつ…。





5.11.12

夜になると林檎は……。

昼間の林檎は



お行儀がいい。

でも、夜になると



林檎は……。




ひと知れず、おしゃれしてみたり、





ひとり人生に苦悩して、





やさぐれてみたりする。




OMG! もうすぐ朝がくる。




ちんまり。


おわり。