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9.2.16

チャリティ・ショップ



英国には、チャリティ団体が一般家庭から引き取った不要品を販売する、チャリティ・ショップがたくさんあります。

うちの近所の商店街にも、わずか800メートルくらいの間に、動物愛護団体やユダヤ人の福祉団体など、4、5軒が軒を連ねています。

ただうちから一番近い、という理由だけで、我が家で不要品が出るたびに、私がせっせと足を運んでいるのが、「ノース・ロンドン・ホスピス」というターミナルの患者さんのためのホスピスを運営している慈善団体のチャリティ・ショップ。

昨日、その「ノース・ロンドン・ホスピス」からはじめて、ニュースレターなるものが届きました。表紙は、テレビドラマの「シャーロック」や「オフィス」、映画「ホビット」などで活躍するマーティン・フリーマン。どうも、「ノース・ロンドン・ホスピス」のパトロンのひとりに加わり、ガラ・ディナーに参加した、ということのよう。英国の役者さんたちは、社会活動に関わっている人が本当に多いですよね。

ちょうど、昨日は以前に忘れな草プロジェクトでインタビューさせていただいた方のひとりが、このホスピスで亡くなったという訃報を受けました。お見舞いに行った方のお話によると、とても快適そうなきちんとしたホスピスだったそうです。

自分にとっては処分のために持ち込ませてもらっている不要品ですが、多くの人の手を介して、少しでもホスピス運営に役立たせてもらえるのは、ありがたいなーと思います。ちなみに「ノース・ロンドン・ホスピス」のチャリティ・ショップは、日本語の本も引き取ってくれるとのことでしたので、近隣の方でやり場に困っている日本語の本がある方は、持ち込まれてはいかがでしょうか。

North London Hospice
http://www.northlondonhospice.org/shops/


24.12.15

Peace on Earth

去年と同じですが、オックスフォード・ストリートはなかなかイルミネーションがきれいです。

すっかりブログもご無沙汰してしまいました。
今年ももうあと1週間。皆さまにとっては、どんな年になりましたでしょうか。

私はなんとなく、「すごく編んだ」という印象の年でした。

世界はざわざわと落ち着きませんが、2016年はどんな年になるのでしょうか。

Peace on Earth.
あなたのもとにも、すてきなクリスマスと麗しき新年が訪れますように。

ウェストミンスター・カウンシルとエロスも「メリー・クリスマス」と申しております…。






2.6.15

「忘れな草プロジェクト」のお話。

縁あって、2013年の秋からお手伝いしている、英国日本人会(Japan Association)主催の「忘れな草プロジェクト」のウェブサイトがアップされたので、ぜひご紹介したいと思います。

このプロジェクトは、戦後1950年代後半から1985年くらいまでの間に、日本から英国に移住した在英邦人にビデオインタビューを行い、アーカイブしていく、というものです。

「忘れな草プロジェクト」のウェブサイトより。サイトからビデオ・インタビューも見られます。

もともと、発起人のウィリアムズ モモコさんが、2001年の英国ジャパン・イヤーの一環で、戦前英国に住んでいた日本人、というテーマで写真展を企画した際に、当時どんな日本人がいたのか、まとまった資料がまったくない、ということに気づき、今記録をとっておけば、50年先100年先に記録として役にたつこともあるのでは、という発想から始まったプロジェクトです。20世紀の後半から21世紀の英国に、こんな日本人がいたんですよ、私を忘れないで、という気持ちを込めて、「忘れな草プロジェクト」と名づけられました。

これまでに三十数人の方にインタビューを行い、編集作業、字幕制作が完成したものから順番に、5分程度のショートバージョンのインタビュー動画をウェブサイトにアップしています。

1950年代に船で英国にやって来て、50年以上英国に暮らしている90代の女性や、60年代にシベリア鉄道でやってきて起業した人々など、実にさまざまな在英生活の先人たちが、貴重なお話をしてくれています。

海外に住んでいると、自分の将来像が見えづらくなったりするものですが、これだけ多くの人たちが、後姿を見せてくれているのだなぁと、インタビューに同行するたびに勉強になることばかりです。

学校でも、本を読んでも教えてもらえないことが、いっぱいつまったプロジェクトですので、ぜひウェブサイトにてインタビュー動画をご覧いただければと思います。

また、プロジェクトでは常時、編集作業をはじめとする制作作業にご協力いただけるボランティアを募集しています。ご興味のある方は、ぜひ、ウェブサイトのお問い合わせページから、ご連絡ください。

忘れな草プロジェクト
http://wasurenagusa.org.uk/

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24.2.15

畑の春準備 2015

去年に引き続き、今年もこの週末、がんばってきました。

畑のほそみちで、馬糞を積んだトラクターが華麗なるターンを決めます。

馬糞を1トン、去年同様にお願いし、畑に運んでもらったのです。
個人所有の馬8頭を預かってお世話をする、という仕事をされているポールさんが持ってきてくれました。

去年とまったく同じ写真に見えるかもしれませんが、ポールさん、トラクターを新調されたそうで、ピカピカの新しいクルマです。

去年と同じように、ビニールシートを準備して、そこにどさどさどさーっと。

ざざーーーん。

そこかしこの畑から人が出てきては、「どこで頼んだの?」「うちも頼みたい!」と、見知らぬ人も、次々ポールさんに直談判。

今年も3人で、これをエッサホイサと手押し車にシャベルで積み込んでは運ぶこと、約3時間。畑にすべてまき終わりました。

これがおいしい野菜づくりを助けてくれます。

体をしっかり動かして、全身筋肉痛になったし、馬糞まみれになりましたが、こういう充実感、日頃の生活ではなかなかないのですよね。

たった半日、ちゃんと労働したことで、1年間(またはそれ以上)の間、はっきりとした恩恵を受けられる、こういうことって、ほかにあんまりないよね、と、畑の大家さんもしみじみ。

これで、よい土ができて、そしてよい土が野菜を育ててくれて、野菜が私たちの身体を満たしてくれるという、なんとも健全な循環。前日の「ポテト・フェア」につづき、なんだかとっても、自然が近くにあった週末でした。

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29.1.15

チャーチルと父の影

ウィンストン・チャーチルが亡くなったのは、50年前の1月24日、そして国葬が執り行われたのが6日後の1月30日だったそうです。

チャーチルといえば、「最も偉大な英国人」というアンケートでは常に首位を独占する、ふたつの戦争を主導(第一次大戦では海軍大臣、軍需大臣、第二次大戦では海軍大臣、そして首相として)、英国を勝利に導いた「ヒーロー」であることは、私がここで語るまでもありません。

没後50年ということで、英国では今年、さまざまなチャーチル関連のイベントやエキシビション、テレビ番組が企画されているのですが、そんななかで昨日放映されたBBCの「Churchill: The Nation's Farewell」で、興味深いエピソードがあったので、ちょっと書き留めておきたいと思います。

戦争が終わって2年後、1947年のある日、チャーチルが自宅の一室で絵を描いていたときのことです。

チャーチルが20歳のときに、40代の若さでこの世を去った父ランドルフの肖像画を模写しようとしていたところ、突然、部屋の片隅に誰かがいる気配を感じました。

赤いレザーのアームチェアに座っていたのは、彼の父ランドルフ。

ランドルフはチャーチルにたずねます。
「自分が亡くなったあと、19世紀の終わりからの英国はどうなったのか」

そこで、チャーチルは父にざっくりと、20世紀最初の数十年間に英国に起きた出来事、ボーア戦争、所得税の導入、第一次大戦などについて伝えるのです。

しかし、チャーチルが第二次大戦について口を開く前に、ランドルフは彼を遮って、こう言いました。
「お前が政治の道に進まなかったのは驚きだな。お前だったら国のためになにかできただろうに。もしかしたら、名を揚げることだってできたかもしれないぞ」

そう言い残すと、ランドルフはふっと消えてしまいました。

このお話は、チャーチルの死後、自筆のノートとして見つかったものだそうです。

父が亡くなるまで、よい関係を築くことができなかったチャーチルにとって、父親の存在は晩年になるまで心の深い部分にあったのかもしれません。

チャーチルが亡くなるまでの6年間、秘書を務めたという女性も、インタビューで「チャーチルの無意識の深い部分には、どうしたら父を喜ばせることができたのだろうか、という気持ちが死ぬまであったのではないかと思います」と語っていました。

どれだけ年をとっても、国のヒーローと謳われても、たったひとりの父親に認められることは、やはり特別なこと、なのでしょうか。ちょっと考えさせられました。

英国にお住まいの方に限られてしまいますが、この番組はあと29日間、BBCのiPlayerで観ることができます。上記のほかにも、へええ、と思う、興味深いエピソードが満載でした。





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23.1.15

ブローチの落とさないつけ方

久々に、マリルボーン・チャーチ・ストリートのアルフィーの取材をさせていただきました。英国では、たくさんのアンティーク・ディーラーがひとつ屋根の下におさまった建物を「アンティーク・アーケード」と呼び、アルフィーもそんな場所のひとつです。最後に取材させていただいたのが、2012年4月だったので、2年以上ご無沙汰していたのですが、変わらぬ顔ぶれが多く、「また来たのね」と歓迎されて、なんだかとても嬉しくなりました。

思わず見入ってしまうアイテムがいっぱいのアルフィーなのです。

アルフィーに関しては、「ことりっぷWeb」をご覧いただければ、ということで、今回は取材中の衝動買いについて、ちょっと触れたいと思います。

このお仕事をしていると、お店取材のときに、「衝動買いの衝動」に突き動かされそうになることもしばしば。興味深いものやすてきなものがいっぱいでも、最初から高くて手が出ないとわかっているときは、まだいいのですが、自分の射程範囲内の価格だったりした日には、心の羽交い締めをゆるめることなく、「私は狭い家に住んでいます。ものを置く場所は1ミリもありません」というおまじないをブツブツ口のなかでくりかえすことになります。

そんな努力の甲斐あってか、取材中にお買い物をすることはほとんどない私ですが、この日のアルフィーでは、ちょっと勝手が違いました。だって、目に入ってしまったのです、この3匹が。

「見ざる聞かざる言わざる」のブローチ

私は特にアンティークのコレクターでもなければ、アクセサリーをつける方でもないのに、すごくすごく欲しくなってしまったのです。お店の方によると、1910年から1920年くらいにつくられた象牙のブローチだそうです。

そこでお値段を聞いたところこれまた、手の出る値段。もうこれは運命、と思ってクレジットカードを差し出しました。

さて、そのときお店の方に「これ、使う予定なの?」と聞かれ、「もちろん」と答えると、ピンの部分を調整してくれて、「ブローチをつけるときは、2回刺すようにしてね」と言われました。実演して見せてくださったのは、こういうことです。

針をこんなふうに刺して出して刺して出します

「そうすることによって、ほらね」と、針をフックから外して「落ちないでしょ」とお店の方。なるほどー、と目からウロコでした。「なくしたくないブローチは、2度刺し」なのだそうです。

皆さまも、ぜひぜひお試しください。

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24.12.14

クリスマスイブだから、ビザの話をしよう。

クリスマスイブの夕べ、皆さまどのようにお過ごしでしょうか。
イヴ(唇を噛む発音)の夜だから、ヴィザ(唇を噛む発音)の後日談について、書きます。

少し前に、友人Mちゃんのビザの問題で法廷に行った話を書きました。
その後、裁判長も、内務省の担当者も法廷で「EU市民の配偶者は、『カード』がなくても英国に滞在できるし、就労もできる」と言い切ったにもかかわらず、内務省から再度「カード」の申請をするように言われたことは、追記に書いたとおりです。

そこで、裁判所で言われたことと違う、と、再度議論することもできたのかもしれませんが、1年以上引きずったこの問題、すっかり疲れてしまったMちゃんは、5年の「カード」の申請をしたところ、なんと、じゃじゃーん! 

Mちゃん、モザイク処理までしてくれて、ありがとう!!

今度は1ヵ月ほどで、無事に「カード」の発行がなされた、とのことです。

しかしまぁ、「カード」とはいいながら、パスポートに「カード」と書かれた査証が貼りつけられただけで、結局「カード」の定義はわからずじまい、ですが……。

とにもかくにも、無事にパスポートが戻ってきて、1年以上ぶりにMちゃんは国外に出ることができました。本当によかった!!

昔、海外旅行に行くたびに「命の次に大切なパスポート」という言葉を何度となく聞いてきましたが、海外に住んでいるとパスポートがない(=なにかあっても、海外に出られない)というのは、本当につらいものです。

ビザのきまりごとは、ころころと、その持ち主の意志とは無関係にお役所が好きなように、好きなときに変えてしまいます。普段あまり意識していませんが、外国人の足下は、実はすごく簡単に崩れるくらい危ういものなのだなぁと、こういうことがあると自覚せずにはいられないですね。

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6.10.14

ビザの問題で法廷へ。



裁判所の入口。どこぞのオフィスのような簡素さですが。


意味深なタイトルをつけましたが、私自身のビザの問題ではなく、いつも仲良くしてもらっている友人に、図らずもビザの問題が発生し、私も法廷に同席してきました。

私も含め、自分の生まれ育った国以外で生活している多くの人にとっては、死活問題となることもあるテーマなので、きっとご興味のある方も多いのではないかと思い、本人の許可をもらって、ここでちょっと詳しく書かせてもらうことにしました。

友人Mちゃんは、イタリア人の夫Aさんと英国在住ほぼ10年。学生だった期間をのぞき、過去8年ほどは、まっとうな会社勤めに加え、フリーランスでもお仕事をしていて、税金もきっちり毎年申告して払ってきました。

去年12月に、EEA(欧州経済領域)市民の配偶者のための5年の滞在証が切れるにあたり、今度は10年間のレジデント・カード(「カード」と「ビザ」の違いが私には分からないのですが)を申請しましたが、今年3月に内務省から不可の返事。そればかりか、彼女のパスポートは戻ってこず、「自主的に国外退去しない場合は、強制退去となる可能性」または「アピール(再審議を求めること)」の二択を迫る内容で、国外退去をする場合は、帰国日にパスポートを直接空港に届ける、とのことでした。

安穏と10年近くも生活してきて、ビザ(カード?)が取得できないばかりか、「強制退去」の4文字に脅かされる事態に、本人はもちろんですが、私もなにかの冗談じゃないかと、思ったほどです。

内務省からの手紙のなかで、理由として挙げられていたのが、過去5年間のなかで、Mちゃんの夫であるAさんに失業期間があり、その失業期間中に失業手当の申請をしていない時期があった、ということ。

確かにAさんは失業していた期間があって、最初こそジョブ・センター(日本でいうところのハローワークにあたる機関)に通っていたものの、途中からやめてしまったのは事実です。というのも、ジョブセンターでは、建築、デザイン関係で大学院まで出ている、彼の資格に見合う仕事は、まったく紹介してもらえず、Mちゃんの収入で生活のサポートはできるから、そんな無駄なことに時間を費やすよりも、独自に就職活動をしたほうがよい、という結論にふたりが達したからです。

しかし、国から手当を「もらわない」ことが、問題になる日がくるとは、当人はもちろん、周りの人間に露知らず。

内務省側からの主張によると、失業手当を申請していることで失業が証明されるところ、失業の証明もなく、かといって税金も支払われていない、この空白期間によって、配偶者であるMちゃんには10年間の「レジデント・カード」の取得資格がない、ということらしい。

国に税金を納め続け、EEA市民である夫を養ってきて、この仕打ち。Mちゃんは、Aさんが空白期間にまともに就職活動を行っていたという証拠として、300ページ以上のメールのコピーやら、手紙やらをまとめ、アピールの手続きをしました。アピールの方法にも、書面だけで返事をもらう(80ポンド)、法廷で審問を受ける(140ポンド)という、ご丁寧にも2つのコースが用意されていて、Mちゃんは後者を選びました。

そんなこんなで、3月にアピールが受理され、審問の日が6ヵ月後(!)の9月30日に決定。その間、もちろんパスポートは取り上げられたままです。

この6ヵ月の間に、Aさんの身内にイタリアで突然の不幸があり、私の夫もMちゃんのために、一時的にパスポートの返却ができないか内務省に問い合わせをしたのですが、「ここでパスポートを返す場合は、アピールはなかったこととされ、英国にこの先2年間入国することはできません」という返事(この回答の「2年間云々」の真偽のほどは疑わしいらしいですが)。パスポートのないMちゃんは大切な人の死に目に会うことも叶わず、苦しい時間を過ごすことになりました。

とにもかくにも、ようやく審問の日がやってきて、我々夫婦も証人として同行することに。エンジェルの「トリビューナル・サービス(裁判所)」に朝9時45分までに来るように、とのことだったので、時間通りに到着、第27法廷に入りました。

裁判所に入るMちゃんの凛々しい後姿。プレッシャーのせいか、朝から鼻血を出したそうですが。

簡易的なものとはいえ、正面のちょっと高いデスクの向こう側に裁判官席、左右に検察と弁護側のデスクがあり、裁判官と向かい合うテーブルには、アピールした当人が座ることになります。右後の端にバスの座席のように、二人ずつ横に並んだ椅子が4列。ここに我々を含め、今日審問を受ける3グループが座って、時間が来るのを待ちました。向かって左側の席には、スーツケースのような書類かばんを引きずった内務省からの担当者が着席し、間もなく裁判官が入廷、全員起立して、裁判官の「お座りください」の一言で再び着席します。

そこで、裁判官より、今日のスケジュールが説明され、Mちゃんのケースは最後の3番目とのことで、どんなに早くても11時半までに始まることはないので、外で待っていていい、と言い渡されました。どうやら、弁護士をつけていないのは、Mちゃんだけの模様です。

最初のひと組が法廷から出てきたのが11時半、そこで、2組めの傍聴をするのもよかろうと、我々もなかに入りました。

簡易的なものではありますが、公的な裁判にはかわりがなく、誰でも傍聴できるというのが前提なのでしょう。東南アジアから英国にやってきた母を追って、あとからやって来たまだ10代の娘さんのビザの申請が拒否されたという、人生ドラマをハラハラしながら傍聴しました(結論として、彼女はそのまま滞在できるという結果のよう。人ごとながら「ほっ」)。

果たして、Mちゃんの順番がまわってきたのは、12時45分。しかも、順番がまわってきた!と思いきや、「もうお昼時間なので、内容をざっくりまとめておいて、午後から審議をしましょう」などということになり(んがー)、2時に再集合、という流れに。だったら最初から2時に呼んでくれればいいのに、という思いと空腹をかかえて、しばし娑婆(しゃば)の空気を吸った後、再び第27法廷へ。

法廷では、裁判官席の正面にMちゃんとAさんが座り、内容的にはAさんの職歴と空白時間について、裁判官から質問が集中しました。ひととおり、事実関係の詳細の確認をしたあとで、裁判官に促されて、内務省側の担当者が口を開きました。

「そもそも、あなたが申請したこの10年間の『レジデント・カード』がもらえないことで、あなた方にとってなにか不都合があるのでしょうか」

この質問には一堂「はぁぁぁ?」(声には出しませんでしたが、そういう感じ)。

「この国でこれまでほぼ10年間、ふたりの生活の基盤をここで築いてきたわけですから、これからも同様に生活していくつもりなのですが?」というAさんの言葉にさらに

「ですから、この10年間の『レジデント・カード』である必要がどこかにあるのですか?」と内務省の担当者。

「??? Mがビザをもらえないことによって、二人が別々の人生を歩んでいくようなことは、我々の想像の範疇にはなく……」とAさんが言ったところで、今度は内務省の担当者のほうが慌てた様子で、

「別々の人生? は? あなた滞在はできるのよ?」と言うので、我々一堂目をぱちくり。彼女は「Of course you can stay」という言葉を何回か繰り返しました。

「やはり、勘違いしているような気がしていました。あなたはEEA市民の配偶者なのだから、カードなしでももちろん滞在する権利があるわけです。ただ、過去5年間の彼の職歴に空白期間があるために、この10年間のレジデント・カード、この特定のカードの取得資格がないというだけなのですよ? わかりますか?」

なんと! しかし、なんかちょっと最初のレターと話が違うような……?

「でも、このレターには、いますぐ荷物をまとめて出ていけ、と『nasty(悪意ある)』なことが書いてありますけど?」とAさん。

そこで裁判官も「あなた方が、そう思うのは無理もないと思います。このレターの書き方は、そう思っても仕方がないです」とAさんに同意を示しました。

一方Mちゃんは、あっけにとられて、混乱している様子。まったくもって無理もありません。

「今回、10年間のレジデント・カードの取得資格はありませんが、彼が就職した日から証明可能な連続5年間の就労、または失業の記録を提出できるようになれば、またこの10年間のカードの申請が可能です。もっと早くに、それを誰かが説明してくれたらよかったのに、と思います」などと、のたまう内務省の担当者。

裁判官も、まとめるように、
「例えば、雇用者に対する証明として、また再入国の際の入管で、カードがあれば、証明が簡単にできるという利点はありますが、EEA市民の配偶者は、カードなしでも滞在も就労もできるわけです。いいですか。それでは、1週間ほどで今日の内容をまとめたレターをお送りしますね」という裁判官に、なんとなく狐につままれたようなMちゃんとAさんも「はい……」。

結果、国外退去という最悪の事態にならず(というか、最初からそんな心配をする必要もなかったという)、しかしながら、10年間のカード取得に関するアピールとしては「敗訴」という結果となり、まぁ、よかったのはよかったのですが、どことなく「もやっと感」。我々も証人として発言する機会を与えらるまでもなく、すごすごと退廷しました。

裁判所からの帰り道、4人であれこれと考えたのですが、もしも、法廷で聞いた内務省担当者の言葉が正しいのなら、そもそも、彼らのレターにあった

You do not have a basis of stay in the United Kingdom under the Immigration (European Economic Area) Regulations 2006. 
As you appear to have no alternative basis of stay in the United Kingdom you should now make arrangements to leave.

という部分に、決定的な「間違い」があるような気がしてならないのです。単純なコピーペーストのミスなのか、なんなのか、わかりませんが、裁判官ですら「誤解しても仕方がない」と同情を示す、この文面で、人生が変わってしまう人もなかにはいるのではないかと思います。

いずれにしても、ビザの問題で困ったときには、やはり入管法に関する正しい知識をもった、信頼できる弁護士なり、アドバイザーなりに相談するのが一番なのかも、と心から思いました。なによりも内務省の手紙がいつも正しいとは限らず、間違いがあった場合にも私なんぞの素人には、それを見抜ける術はないのですから。

ふと思ったのですが、おそらく日本に住む外国人もこういったビザの問題があり、ときには、こういった法廷に立たなくてはならないことがあるのでしょうか。外国人として生活することは、もちろん他文化に触れられたり、いろいろと刺激的で楽しいこともたくさんありますが、自国にいたときにはまったく考えもしないような面倒臭いこともあるのですよね。

<後日談・追記>
その後、裁判所より法廷の内容の文書が届き、Mちゃんが内務省にパスポート返却のお願いをしたところ、内務省から折り返しの「パスポートは返却できない。レジデンスカードの申請をし直すように」と電話がかかってきたそうです。「カード」はなくても滞在できる、という法廷での内容と食い違う電話に、ますます混乱。ますます「カード」と「滞在許可証」はイコールなのかどうか、悩んでしまいます。


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22.5.14

時計が戻ってきた。(その2)


無事帰宅。

一般的な価値とは無関係に、なんらかの思い出のある品物など、自分だけにとっての価値を英語では「センチメンタル・バリュー」ということがあります。

以前にも書いたことがありましたが、ここ20年以上身に着けている腕時計は、私にとっては、まさにセンチメンタル・バリューのある愛用品。

この時計が手首から消えていることに気づいたのは、1週間のスコットランド出張の帰り道、飛行機がエディンバラから離陸しようとしている、そのときでした。

いったい、どこにいってしまったのだろう、とグルグル頭のなかで考えて、それほど時間もかからずすぐに、空港のセキュリティゾーンで時計を外してトレーにいれた記憶がピコーンと頭によみがえってきました。そしてそれを手首に戻した記憶がないことも。

あああ、どうしよう、と気づいたときには、すでに飛行機は滑走路を滑り出していました。時計を空港に置き去りにして、自分だけロンドンに帰るという状況は、なんともいえずいやーなもので、たぶんもう、あの時計は戻ってこないだろうなぁと、えらく感傷的になって落ち込んだ帰路でした。

さて、ロンドンに戻ってきてすぐに、とりあえず、エディンバラ空港の遺失物担当の窓口に、メールを送りました。前回ブログに載せたときに撮った写真があったので、それも添付して、セキュリティゾーンに置き忘れたことを書いたら、わずか数時間のうちに、「見つかりました」のお知らせとリファレンス番号が。

その後、遺失物担当の方が、私のメールアドレスを間違えたりというハプニングもあり、思ったよりもちょっと時間がかかりましたが、今朝、10日ぶりに私の手元に時計が戻ってきました。

この10日間のあいだに、日本で仕事をしていたときに大変お世話になった方の訃報を聞き、たまたまなのですが、その方がこれと同じ時計をしていたことをぼんやりと思い出しました(その方がされていたのは紳士用でしたが)。

センチメンタルバリューというのは、こうやって静かに雪が積もるみたいに重なって、いつか自分だけにわかる(自分だけにしかわからない)特別な意味をこしらえてしまうものなのかもしれません。


ホテルの窓からは、エディンバラ城が見えました。

羊の出産シーズンだけに、シェットランドでは飛び回る子羊と母さん羊の姿がいっぱいでした。







3.3.14

水兵リーベ僕の船、Yes, I have a number

数字も元素記号も年号も、覚えるのは一苦労。
記憶が穴ぼこだらけなのは、いまに始まったことではないのです、私の場合。


先日、夫とご飯を食べながら、最近塩分を控えている彼に「塩分を控えるのも大切だけど、塩分を身体の外に出す働きをする『カリウム』を摂取することも大切なんだって」とにわか知識をひけらかしたら、「へっ? 『カリウム』ってなに?」とすっとぼけた返事。

「えっ、『Kalium』知らないの? 元素記号の『K』だよ。『水兵リーベ僕の船』って知らんのか、君はァー?」と問うと、「んんん? (iphoneで急いで調べる)あ、あぁ、なーんだ、『ポタシウム』のことかぁ」ときたもんです。

「ポタシウム」と呼びながら、元素記号は「K」。ほかにもこういうのはたまにあって、「ナトリウム」も英語では「ソディウム」。なんでも「ソーダ」からきた言葉なのだそうです。「ソディウム」と言いながら元素記号は「Na」。ややこしいったらないです。

ほかにも「マーキュリー」が水銀。水星=マーキュリーでわからなくはないですが、元素記号「Hg」にしてマーキュリー。「日本語ではマーキュリーってなんなの?」と聞かれ、「そのまんまよ、『Hg』そのまんま。『ハイドロ(H)』で『銀(g)』だから水銀」(銀は嘘です、念のため)などと。

「水兵リーベ僕の船」は、同年代の方ならきっと似たような覚え方をされたと思いますが、元素記号表を丸暗記するための語呂合わせです。いま思えば「シップスクラークか」ってなんだよっ、という感じの、まったくもってひどい終わり方のこの語呂合わせ、覚え方の文言を覚えていても、実際紙に正しく書くことができません。

同様に、つづいて円周率の話になり、「いやー、円周率っていったら、3で小数点以下は、『一夜一夜にひとみごろ』だわよ」と自信満々に言い放ったら、夫から、「それは違う」ときっぱりと否定され、ショックを受けながら調べたら、「一夜一夜にひとみごろ」は、「√2」でした。同じく「富士山麓にオウム鳴く」がなんだったのか、忘れてましたが、これは「√5」。

覚え方を覚えていても、それがなにするのかをすっかり忘れてしまっては、意味がないですよね。

英語にはそういう語呂合わせがないのか、と思ってネットで調べてみたら、円周率は「Yes, I have a number」なのだそうです。なんじゃそりゃ、と読み進めると、キーとなるのはそれぞれの単語の文字数。「Yes(3), I(1) have(4) a(1) number(6)」で、3.1416となるらしいです。

といっても、夫(現在50歳)の年代では、そういう覚え方はなかったとのこと。最近はそういうふうに教えるのでしょうか。

それにしても「りかちゃんはさみしいの」って、なんだったかなぁ……。


17.1.14

長兵衛さんのいない東西線と吾妻橋。

浅草の街角。


久しぶりに浅草に行ってきた。
この界隈を舞台とした古典落語に「文七元結」という江戸っ子の人情噺がある。

博打に溺れてしまった左官屋の長兵衛は、ろくに仕事もせず、今日もすっからかんにすって、身ぐるみ剥がされ、賭場の半纏一枚で家に帰ってくる。するとうちでは、17歳になる娘のお久がどこかに行ってしまった、と、女房が泣いていた。そこに吉原の「佐野槌」という大見世から使いの者がやってきて、お久が佐野槌に来ているので、いますぐ長兵衛に来てほしいと言う。着ていくもののない長兵衛は、女房の着物を無理やり引き剥がし、女物の着物で吉原へと出向く。

お久は、仕事もせずに博打に負けては家で暴れる父と困り果てる母を見兼ねて、自分が身売りをすることで、父の借金を助け、それで父が改心してくれるなら、と佐野槌を訪れたのだった。お久の頼みに、佐野槌の女将は、長兵衛に50両を貸し与え、借金のかたにお久を預かると長兵衛に告げる。来年の大晦日まではお久を見世には出さず、自分の身の回りの世話をさせながら、面倒をみるが、来年の大晦日までに長兵衛が全額返却をできない場合は、お久を女郎として見世に出す、と、女将は言う。

心を入れ替え、働く決意を胸に佐野槌をあとにした長兵衛だったが、吾妻橋で川に飛び込もうとしている、べっ甲問屋「近江屋」の文七に出くわしてしまう。力づくで止める長兵衛。だが、文七は集金先で受け取った50両をすられてしまい、金がないと店に帰れない、死ぬしかない、と泣きながら訴える。死ぬよりも生きるほうがつらい、でも人は生きなければいけない、と何度も諭す長兵衛だったが、「金がなければ死ぬしかない」と言い張る文七に、やむを得ず50両を渡してしまう。

不信な表情の文七に、その50両は自分の娘が身売りをしてこしらえたものであることを話す長兵衛。娘は女郎になっても死ぬわけではない、自分も女房もその50両がなくても死ぬわけではない。だが50両がないことで文七が死ぬと言うのなら、それを持っていけと言う。そんなお金はもらえない、という文七に無理やり50両を投げつけて、逃げるように長兵衛はその場を去る。

文七が長兵衛からもらった50両を手に店に戻ると、すられたはずの50両は主人のもとに届いていた。実はこの金はすられたのではなく、文七が集金先に置き忘れたもので、文七よりも先に近江屋に届けられていたのだ。新たな50両の出どころを問いただされ、文七は長兵衛とお久のことを主人に話す。

翌日、文七を引き連れ、主人は長兵衛のもとを訪れる。50両を返し、これを縁に文七を養子にしてほしいと、また自分たちとも親戚づきあいをしてほしい、と申し入れ、祝いの盃を交わす。酒の肴にと、主人が外から招き入れたのが、美しく着飾ったお久。近江屋の主人がお久の身請けをし、連れ戻したのだ。長兵衛夫婦とお久は抱き合って喜ぶ。

その後、文七とお久は夫婦になり、近江屋から暖簾分けしてもらって、元結(まげの根本を結ぶ紐)の店を出して、たいそう繁盛したという。(完)

    ☆ ☆ ☆

……というのが、この噺のあらすじである。

さて、江戸の人々のお話は、一旦脇に置き、ここからは、浅草に行く道すがらに起きた現代のお話。

ここのところ、帰国するたびに日本ってなんてシュールな場所なんだろう、と思うことがあるのだけれど、これもそんな一例だった。

平日の午前11時頃のこと。中野から東西線に乗った。
中野始発だったので、私がホームに向かって階段を駆け上がったときには、すでに電車は数分停まっていたのだと思う。

電車に乗ると、人もまばらで(というか、その車両に乗る人乗る人、別の車両へと移動するからだったのだが)、床に人が倒れていた。

20代と思われるその男性は、長椅子と長椅子の間の通路に、腰を捻るヨガのポーズのような姿勢で横たわっていた。目は閉じていて、明らかに変である。傍らの長椅子の端っこに、たったひとり若い女性が座って、鼻をすすりあげながら泣いている。

私が驚いてその場に立ち尽くしている間に、その車両には何人もの人が乗ってきたが(平日の昼間だけに移動中の会社員風の人や学生風の人が多かったけど)、全員足早にそのあたりから立ち去り、同じ車両の端っこのほうか、別の車両へと移っていった。

我に返って、その倒れている人の腕を揺さぶって、「大丈夫ですか、具合が悪いんですか」と声をかけると、なにやら寝息ともいびきともつかぬ音が聞こえてくるが、反応はなし。それでもなお、「大丈夫ですか」と腕を揺さぶっているうちに、電車はドアが閉まって、中野駅を出発してしまった。

これは次の駅で駅員さんを呼ぶしかないか、と傍らのシートに座っていたら、ほかの車両から移動してきた20歳くらいの青年がひとりだけ、しゃがんで床に横たわっている人に声をかけようとしたので(その間にも車両を移動しようとして、何人かがこの車両に入ってきたが、彼以外は全員その場を立ち去った)、「声をかけて揺さぶってみたんですけど、反応がないので、次の駅で駅員さんを呼ぼうと思うんです。ただ寝てるだけかもしれないけど、明らかに様子が変ですよね」と話しかけてみた。彼も「そうですね。次で呼んだほうがいいですね」と、即席同志となった。

次の落合駅で、ホームを走って、駅員さんを呼びに行く。ドアが閉まる前に急がなければ、と、進行方向と反対側のちょっと離れた位置で安全確認をしている駅員さんに手を振りながら走って行くと、駅員さんも気づいてくれて、私の方に向かって猛ダッシュしてきた。

私も焦っていたけれど、この駅員さんの焦りぶりが半端ではなく、並んで走りながら「どうしましたっ??」「あっ、あの、あっちの車両で男の人が」「どうしましたっ??」「倒れてて、あの」「どうしましたっ??」とこちらが答え終わる前に同じ質問をかぶせてくる。

私が、この駅員さんを連れてくる間に、先ほどの同志も、どうやら進行方向側から、ほかの駅員さんを呼んでくれたようで、2人の駅員さんがほぼ同時に車両に乗り込んだ。

私が呼んできた駅員さんは、若くて線の細い男性だったのだが、立場的に上なのか、車内では彼がイニシアチブをとった。

倒れている人の頭を揺すったり動かしたりしては大事に至るケースもある、と聞いたことがあったので、私はかなり遠慮がちに腕を揺すったのだけれど、この駅員さんは容赦なく、肩を揺さぶって、こう言った。

「お客さんっ! お客さんっ! 起きてください!!」

さらに。

「お客さんっ! お客さんっ! こんなところで寝てたら、風邪ひきますよっ!!」

駅員さんには申し訳ないけど、あまりのシュールさに、私は爆笑しそうだった。
もしかしたら、東京メトロでは、寝ている乗客を起こすときには、「いかなる状況においても」このフレーズを使う、という規定があるのかもしれない。

焦る駅員さんにも、笑いをこらえる私にも、まったく無関係に、横たわる男性は反応なしのまま。

「よしっ、降ろすぞ」と、線の細い駅員さんは、もうひとりのやや体格のいい駅員さんに声をかけ、それぞれ足の方と肩の方に手をかけて、ホームに引きずり降ろそうとした。

……のだが、横たわっていた男性も決して細いほうではなく、意識がないぶん(または眠っているのか)、ずっしりと重いのだろう。細い駅員さんは、まるで「痩せガエル」が相撲をとるように、どうにかこうにかよろけながら、ホームに出て、しまいには男性を無理やりベンチに座らせようとして、抱き合いながらふたりで転びそうになり、思わず電車の窓から見ていて悲鳴を上げたが、なんとか体制を持ち直し、痩せガエルひとりがベンチの上に腹ばいになるように転倒した。

その後、その電車が落合駅を離れるまで、無理やり座らされた男性は、座ったままの姿勢をキープしていたので、「大丈夫そうですね」と同志の若者と目を見合わせた。それにかぶせるように、頭上からもアナウンス。

「ただいま落合駅にて、急病のお客様の対応をしておりましたために、予定よりも5分ほど遅れて、落合駅を発車いたしました。お急ぎのお客様にはご迷惑を……」。

……やはり、シュールだと思った。

この一連の出来事で、私が感じたのは、駅員さんの恐ろしいまでの「ダイヤを乱すことなく、運行しなくてはならない」という使命感だ。

それ自体は否定しないし、立派だとも思う。

だけど、「かなり常識的に考えて」それ以上に大切なものもあるんじゃないだろうか、と思ってしまうのだ。例えば、「急病のお客さまに対する適切な対応」とか、「駅員さんが安全に働く権利」とか。

来年で地下鉄サリン事件から20年になるが、地下鉄はなにが変わったのだろう。

まぁ、シュールなのは、日本じゃなくて、日本のなかでは私のほうがシュールな存在なのかもしれないけど。

それにしても。

あれだけの人(少なくとも20人〜30人)が、車内で倒れている人を見ていて、そのなかで反応したのがたったのふたりって、なんて世知辛い世の中なのだろう。この話を母(大阪出身)にしたら、「大阪のおばちゃんには、ありえない」と言う。もう東京には、長兵衛さんはいないのだろうか。

死のうとしていた文七が、長兵衛さんに止められて、50両をもらったという吾妻橋にて、そんなことをぼんやりと考えた。

現在の吾妻橋。アサヒビールのビルのあたりに、
長兵衛さんが通った賭場「細川の屋敷」があったそうです。

雷門の前。

浅草に来た最大の目的は、「かね惣」さんで包丁を買うことでした。
その場で最後の研ぎを入れてくれます。

※「文七元結」、私は談春さんと志ん朝さんのバージョンが大好きです。
ご興味のある方は、こちら(↑)のリンクからどうぞ。

















17.12.13

セカンド・オピニオンに関する個人的な経験について。

ペンザンスもランズ・エンドも、とにかくよく歩いた旅でした。


11月の中旬に、4泊5日(寝台車一泊も含む)でコーンウォールに行ってきました。私も年をとるごとに、いつもは時の流れるスピードに圧倒されるばかりなのですが、このコーンウォールの旅行は、たった1ヵ月前のことなのに、あれからもう1年くらい経ってしまったような気がします。

この旅の間に、ペンザンスのギャラリーで会して談笑したふたりの人が、この一ヵ月の間に、続いて心筋梗塞を患いました。ひとりはこの世を去り、ひとりは幸いこちら側に留まることができました。

たった10日前にあんなに元気に、幸せそうにしていた人が、ある朝ベッドのなかで冷たくなっていたという話を聞いて、本当に人生はなにが起こるかわからないし、一日一日が、実は、終わりに向かうカウント・ダウンなんだなぁと、考えずにいられませんでした。

スティーブ・ジョブスが語った「今日が自分にとって最後の日だったら、自分はこれからしようとしていることをするだろうか、と、毎朝鏡のなかの自分に自問する。いつかその日は本当に来るのだ」という言葉が、いままでよりも重みを増したのも、この1ヵ月のことです。

これから私が書こうとしていることは、この1ヵ月に私が考えた生と死の境界線のこととは、直接的には関係ありません。直接的には、と但し書きをつけたのは、間接的には大いに関係していると思うからです。

私自身の話になりますが、去年の暮れから、今年の前半にかけて、原因不明の右腕のしびれに悩まされていました。

最初は、軽いピリピリというしびれだったのが、だんだんひどくなり、腕が重くだるくなり、鞄を持つのが辛くなって、鍼治療に通ったりもしました。鍼は、治療してもらったときは、一瞬少しよくなったような気がするのですが、数日後にはまたもとにもどってしまいます。

病院にも行きましたが、特に異常はないので、筋肉を弛緩させて痛みを和らげる薬を処方してあげるから、それを飲みながら、理学療法に行ってみたら、というアドバイスを受けたのみ。原因もわからないのに、間に合わせ的に薬で筋肉を弛緩させることには抵抗があったので、結局薬は飲まず、ヨガに通って、症状を和らげるだけでごまかしていました。

このしびれがきれいに消えたのは、6月に右側奥歯の根幹治療が完了したときのことです。治療の最中に、右腕がビンビンとしびれて、驚いたのですが、歯が治ると同時にしびれもとれたので、おそらくなんらかの関係があったのだろうと思います。

私はもともと歯が弱く、日本でも歯医者ジプシーを繰り返して、二桁の歯医者さんにかかりましたが、ロンドンでは3人目の歯医者さんが大当たりで、10年以上にわたって同じ先生に治療していただいていました。この先生が一昨年、引退されて、次の先生に引き継がれてから、ちょっと疑問に思うところがいくつかあり、最終的にこの歯医者さんでこの奥歯の根幹治療に失敗し、抜歯してインプラントしかない、と宣告されてしまったのです。歯が欠けてしまったので、以来、左側だけで噛むようになりました。それが、ちょうどしびれの始まる数ヵ月前のことです。

根幹治療が失敗したとはいえ、まだ半分くらいは残っている歯を抜いてしまってよいのか、すごく迷った結果、知人が何十年もかかっているという歯医者さんを紹介してもらい、門を叩きました。新しい先生には、ダメかもしれないけれど、もう一度、彼らと提携のある根幹治療の専門医に診せたほうがいいのでは、とアドバイスされ、専門医の先生にかかること4回ほどで、今年の6月、一度は諦めた歯の根幹治療が完了したのです。腕のしびれがなくなったのは、この頃のことです。

その後、様子見期間とアフターフォローのチェックアップがあって、今日、無事に差し歯が入り、両側で噛める喜びを、「文字通り」噛みしめました。

一方で、私の父は10年ほど前に癌で亡くなったのですが、戦争経験のある私の親世代にありがちな、ひとりのお医者さまにかかったら、別の医者に「浮気」するなんて、とんでもない、と考えるタイプでした。

ほかでセカンド・オピニオンをもらっていたら、結果が変わっていたかのかどうかは、いまとなっては知る由もありません。心のなかでは、どこかでセカンド・オピニオンをもらってほしい、と、娘としての私は、もちろんそう思っていましたが、親であってもひとりの大人として、彼が自分で判断して決めたことを尊重したいという気持ちがあり、私の気持ちをひとりよがりに押しつけることはできませんでした。一部の人にとっては、そういう私の態度は「冷たいもの」に映るかもしれませんし、それを否定する気持ちもありません。

ただ、なにが正しいとか、正しくないとか、答えのないものに対してジャッジメンタルになるのは、私には不毛なことに思えますし、ときに正しいか正しくないかは別として、まるごと受け入れなければならないこともあるんじゃないかなぁと思うのです。

私の場合は、本当にあのときに諦めて抜歯してインプラントにしなくてよかった、と思える結果でしたが、それもとりあえずいま思っていることで、もしかしたら、来年はインプラントのために別の歯医者さんに通っていることが、ない、とも言い切れません。

どういう選択をするにしても、できるだけ後から後悔しないように、今日という日がカウント・ダウンされて、もう戻ってこない一日だということを心に刻んで、まだこちら側にいる人間は、一日いちにち、生きていかないといけないなぁ、と、心から思う今日この頃です。来年の夏のプランをいきいきと語っていた、その人に、その夏が訪れないこともある、という単純な事実に、正直なところ打ちのめされました。


コーンウォールで、自分のおみやげ用に買ったカード。
上が陶芸家のバーナード・リーチ。下がミナック・シアターをつくったロウェナ・ケイドです。
ロウェナ・ケイドは、今後の私の人生において、心のメンターになりそうな予感……。


※歯医者さんについては、お友だちのまぁちゃんも、興味深い記事をブログにアップしていました。こちらもぜひ。




















10.11.13

白いポピー

こんな白いポピーがあるのをご存知でしょうか。

11月11日の英霊記念日に向けて、ロンドンの街にポピーの花が溢れるこの時期は、毎年自然と戦争について考えてしまう、英国にとって、日本の8月初旬のような季節です。
(ポピーの花と英霊記念日との関連については、一昨年のこちらのポストをご参考までに)

振り返ってみると、去年も一昨年も戦争に関することをブログに書いていました。

先日、スタンステッド空港で小銭をポピーアピールの募金箱に寄付したら、「ぜひポピーを持っていってください」と言われました。「いえいえ、けっこうです」と言ったのですが、典型的な英国人紳士(に見えるこの男性)、「I insist...(まぁ、そうは言わずに…みたいなニュアンス)」とこれまた典型的な英国的受け答え。ありがたくひとつ受け取って、胸につけました。

私は戦争で傷ついたり亡くなったりした、すべての方に対して心から同情はしますし、痛ましい気持ちにはなりますが、第二次大戦では敵国であった日本から来た私が、英霊記念日に向けて赤いポピーの花を胸につけるのは、どうなんだろう、という複雑このうえない思いがあり、いままで募金はしても胸にポピーをつけたことはありませんでした。

そんな話を、11月第2日曜日、英霊記念の式典が行われる日曜日の今朝、夫にしたところ、「英国人のなかにも、そういう人はけっこういて、白いポピーを胸につけている人がいるよ」と言うのです。

そこで、さっそくネットで調べてみたところ、白いポピー・キャンペーンは、戦争で命を落とした英国兵、さらに自国、敵国をわけず、戦争で命を奪われたすべての市民に対する哀悼の思いと、明確な「反戦支持」を意味し、1933年に始まったものだそうです。英国の非政府組織の反戦団体である「Peace Pledge Union」が運営しています。

Peace Pledge Unionのウェブサイトを見ていたら、白いポピーのリースを記念碑に手向ける式典が正午からタビストック・スクエアで行われたとのことだったので、ちょっと見に行ってきました。

ラッセル・スクエアの北側にある公園です。

私が到着したときには、すっかり式典も終わって、人もまばらな静かな公園でしたが、式典の名残はちゃんと残っていました。

戦争で戦った人、ではなく、戦わないことを選んだ人々を讃える石碑の下に、白いポピーのリースが置かれています。

石碑には、「TO ALL THOSE WHO HAVE ESTABLISHED AND ARE MAINTAINING THE RIGHT TO REFUSE TO KILL」とあり、「Conscientious Objectors」を讃えるもののようです。「Conscientious Objectors」は、日本語にすると「良心的兵役拒否者」と、あまり聞き慣れない言葉ですが、Wikipediaによると「良心的兵役拒否」の項で、以下のような説明がなされています。

「国家組織の暴力、とりわけあらゆる形態ないしは特定の状況下の戦争に参加することや義務兵役されることを望まないこと。当人の良心に基づく信念であり、拒否した者を良心的兵役拒否者 (conscientious objectors, CO's) という」

もちろん、英国でも大戦中に召集を受けたら拒否することは許されなかったわけで、徴兵されることよりも投獄されることを選んだ人々、ということになります。

反戦をうたう、メッセージがリースの中央に。

余談ではありますが、同じタビストック・スクエアには、こんな記念樹もありました。

広島の原爆で犠牲になった人々に捧げる記念樹だそうです。

多分に理想論が入っていることは承知の上で、白いポピー、気になる存在です。


一方、こちらは、通常の赤いポピー。こちらも今日はいろんなところで、記念碑にリースが手向けられる式典が行われたようです。

ユーストンの駅前。

よーく見ると、前列右側は、元国会議員でジャーナリスト、鉄道番組に出演している
マイケル・ポーチェロさんが、戦死を遂げた鉄道員たちに捧げたものでした。

赤いポピーのリースを抱えて、式典の準備を急ぐ、ハイゲイトの牧師さん。

白も赤も、ポピーにあふれた11月第2日曜日のロンドンでした。

2.11.13

おすすめしたい私の好きなふたつのこと(もの)②


読書中はついついカバーを脱がしてしまう私です(同じ写真でスミマセン)。

さて、急にふたつに分けることに決めた、「おすすめしたい私の好きなふたつのこと(もの)」②は、ミュージシャンであり詩人のパティ・スミスさんの「ジャスト・キッズ」という本です。

この本がうちのポストに届いたのは、今年のはじめのことでした。以前にお仕事で、何度かご一緒した、お友だちのライター兼翻訳者の小林薫さんが、ご自身の訳書が出版されたから、ということで、わざわざ日本から送ってくださったのです。

今年前半は、私も仕事が忙しく、落ち着いて本を読む間もなく、時が過ぎてしまったのですが、秋になってようやくまとまった時間ができて、読み始めたが最後、もう夢中で最後まで読んでしまいました。

この本は、パティ・スミスが、1989年に41歳の若さで亡くなった写真家ロバート・メイプルソープと過ごした20年間を綴ったものです。1967年、まだなにものでもなかった20歳のパティ・スミスが、スーツケースひとつでNYに出てきて、ホームレス生活を送っているところに出会ったのが、こちらもまだ、なにものでもなかったロバート・メイプルソープだったのです。

ふたりは恋人であり、兄弟のようであり、同士であり、そしてロバート最期の日まで絶対的な親友だったことが、この本からうかがえます。アートに悩み、自分のアイデンティティやセクシャリティに悩み、壁に爪を立てるようにもがく彼らの周りには、ウォーホールや先日亡くなったルー・リード率いるヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジャップリン、ウィリアム・バロウズ、ジム・キャロルといったそうそうたるビートニクの主要メンバーがいました。

当時まだなにものでもなかった人々と、すでに世に名前を馳せていた人々、道半ばで命を落とした人、いまもそれぞれの業界を牽引している人、そんな数々の名前が交差して、人間関係をかたちづくり、離れ、戻り、必死に自己表現の道を探す様子が、とても興味深く描かれています。

そしてなんといっても、パティ・スミスのポエティックな表現が、ただでさえ興味がつきない当時の人間関係を、さらにリリカルにひもといていくのです。

そんな文章の魅力をあますことなく訳文で表現した、小林薫さんと共訳者である、にむらじゅんこさんには、心からの敬意を表したい気持ちです。

秋の夜長、ちょうど読書のシーズンです。
よろしかったら、ぜひお手にとってみてください。

「ジャスト・キッズ」(河出書房新社刊)2380円(税別)
パティ・スミス著 にむらじゅんこ/小林薫 訳

秋の夜長にぜひ。


12.10.13

ポルトガルに一目惚れ(2)

「アートとは遊びごころである」……とは、私がいま思いついた言葉なんですけど、これ、まんざら嘘じゃないような気がします。が、どう思われるでしょうか。

ひとつ前のポストでも書きましたが、今回のポルトガル旅行は、ロンドンからリスボンに飛んで、カシュカイシュという海辺の街から始まりました。空港に着いて、地下鉄でリスボンの中心に向かい、その後リスボンのターミナル駅からカシュカイシュまで、各駅停車でも30分ちょっと。ポルトガルという国に足を踏み入れて、カシュカイシュのホテルに到着するまでのわずか1時間ほどの間に、すでに、私はこの国の余裕というか、遊び心にすっかり心を奪われてしまいました。

例えば、空港の地下鉄駅で。

なーんか勇気づけられる言葉じゃあ、ないですか。

生活に必要かと言われると、ぜんぜん必要じゃない、だけどちょっと心を豊かにしてくれるもの。ふっと表情を緩ませてくれるなにか。そういうものが街のそこここで目に飛び込んできて、なんというか、そんなアーティスティックな遊びごころに、一目惚れしてしまったのです。

例えば、電車のドアにも。ちょっとしたデザインに遊びごころがあるのです。

チケットを買いましょう、とかそういう意味?

ほかにも、「不思議の国のアリス」のなかに出てくるウサギが大きくいくつもプラットフォームに描かれている駅もあり、なかなか迫力がありました。

カシュカイシュでも、たぶん一日30人くらいしか通らないんじゃないかなーと思うような場所に、こんな休憩所みたいなところがあり、屋根の格子が無駄に計算されていて、美しい影を地面に落としていたり。

思わず、立ち止まって見入ってしまいます。

たぶん、ほとんどの人が目にとめないだろうなぁと思う、奥の壁には、こんな絵が描かれていたり。

ついでに、このフキダシの(定番すぎる)落書きにも笑ってしまいますが。

海辺のショッピングセンターの壁がこんなふうに……

一見よくわからないと思いますが……。

ちょっとよく見ると……

アジサイの花は、壁に描かれた絵で、ローズマリー(?)のような鉢植えだけが本物です。

こちらはポルトの街中で。

きれいなアズレージョですが、ベランダに飾り窓の女?

ちょっと拡大……。

下の階にもマネキンがいるのです。

当然のことながら、食品のパッケージのデザインも優れたものが多いなぁと思いました。

イカとかタコの煮込みの缶詰が、最高においしいのです(涙)。

国の経済状況が悪く、苦境のなかにいる国、と聞くと、まず、壁に描かれた「FUxK」とか、街に溢れる物乞いとか、どこか荒んだ空気とか、そういったものを連想してしまいがちですが、国の置かれた経済的な苦境と、人々の遊びごころは、実のところそれでも共存できるものなのだとわかって、心からほっとしてしまったというか、そこに救いを見たような気がしました。

肩肘張らない、どこかひとつ力の抜けた遊びごころからくるアートが、こんなにカジュアルにもたらされる背景に、この国の人たちの精神的な余裕のようなものを感じてしまうのです。それは、あの美しいアズレージョを、風雨にさらされることもいとわず、惜しげもなく外壁に使う精神とちょっと通じるのかしら、とも思ったり。

このスカートも、たぶん誰かのいたずら……とは思うのですが、なーんかキュート。

平日は静かなカシュカイシュでしたが、週末の夜にはものすごい数の人たちがやってきて、お祭り騒ぎでした。駅前にはこんな顔が設置され……。

駅前のロータリーの中央に立体的な顔型の巨大スクリーンが設置され、
そこに人々の顔が映し出される仕組みです。すごいリアルでした。

美術館に行かなくても、生活のなかで触れられる小さなアートがいっぱいあるっていいですよね。



10.10.13

ポルトガルに一目惚れ(1)

ポルトの一角。壁には一面に、惜しげもなくアズレージョが。

先月、休暇でポルトガルに10日間ほど行ってきました。

格安航空会社のフライトを使って、まずはリスボンに飛び、リスボンから電車で30分足らずのカシュカイシュという海辺の町に6泊、そしてリスボンから長距離電車に乗って3時間、ワインで有名なポルトに向かい、そこで3泊してきました。

夫のいとこがポルトガル人女性と結婚して、ここ10年ほど住んでいること、イカやタコなど英国ではあまり一般的じゃない魚介類も豊富で、食べ物がおいしいと聞いていたこと、ちょっと前に雑誌の企画でポルトガルのタイル(アズレージョ)に関する記事に関わったこと、カステラ食べたい〜などと思ったこと、などなど、ひとつひとつはかなり薄い動機づけですが、そういう小さな「行ってみたいかも」が重なって、ここ数年私にとってポルトガルは「ちょっと気になる国」ではありました。そんな折に、以前から愛用しているオンラインの旅のセレクトショップで、カシュカイシュのホテルのスイートルームが安く出ていたので、「はっ、これはっ!」と飛びついた次第です。

今回、ポルトガルに行くにあたって、いくつか関連の本を日本から取り寄せましたが、そのなかで、本当に本当にお世話になったのが、矢野有貴見さんの「レトロな旅時間 ポルトガルへ」というガイドブックです。ふつうのガイドブックとちょっと違って、著者の矢野さんの目線が光る、彼女の好きなものを詰め込んだんだろうなぁと思えるつくりになっています。

こちらの本のタイトルにも「レトロ」という言葉が使われているとおり、実際に行ったポルトガルは、なんとなく「なつかしい」感じのする場所でした。初めて行ったこの場所の、なにが「なつかしい」と感じさせるのか、自分なりに考えてみて、ちょっと語弊があるかもしれませんけど、「貧しさ」なのかなぁと思ったりもしました。貧しさというと、ネガティブな、「負」の印象がつきまといますが、決してそうではなく、古いものがそのまま修復もされずに残っている、そういうビジュアルが「なつかしい」という感情を刺激するんじゃないか、と思ったのです。

金融業界では「PIGS」(ポルトガル、アイルランドまたはイタリア、ギリシャ、スペイン)なんて言葉があるようですが、ポルトガルは自国では経済回復が難しいと言われている、経済的には苦境のなかにいる国として知られています。経済状況が悪いことは、決して喜ばしいことではありませんが、それでも皮肉なことに、好景気の国の都市がおしなべて、資本主義経済にお決まりのチェーン店で埋め尽くされて、その土地のアイデンティティを失っていくのに対して、例えばリスボンもポルトもちょっとボロッとしてるかもしれないけれど、そこには17世紀とか18世紀からあったと思われる美しいアズレージョが残っていて、無性に心を打つものがあります。そしてなによりも、そこで暮らす人々に、すさんだ感じがないことに救われるのです。

そんなこんなで、何回かに渡って、私がポルトガルで心奪われたものについて綴っていきたいと思いますが、まず今回は私の目を惹きつけてやまなかった、美しいアズレージョを一気に写真でご紹介します。

アズレージョというのは、もともとアラビア語の「磨いた石」を意味する言葉がその語源で、確かにトルコやモロッコで見られるようなスタイルのものもたくさん見かけました。しかしトルコなどでは、建物のなかに使われるこういったタイルが、惜しげもなく外壁に、しかも一面に張られているのが圧巻です。

とにかく普通のお家の壁が、こんな感じなのです。

アズレージョと聞くと「青」の印象が強かったですが、さまざまな色があります。

よく見たら色違い。

こんなふうに壁一面に。

何回も張り替えられたのかなぁと思う建物もあります。


アズレージョは、陽光によく似合う。

オランダのタイルのようなものも。

街角の平屋が続く小道もアズレージョ。まさに生活風景なんですね。

ポルトの教会の外壁に張られたアズレージョ。圧巻でした。

こちらはポルトの駅のなかのアズレージョ。

街角のキオスクにもタイルが使われています。

そうそう、アズレージョについていろいろ知りたくて、前述のガイドブックに載っていた、リスボンの国立アズレージョ博物館にも行ったのです。現在も使われている古い修道院の一部に設置された博物館で、チャペルもあり、展示物もさることながら、その建物自体があまりに美しかったです。

こちらはアズレージョ博物館の食堂のなか。

博物館の中庭に面したアズレージョ。

夢のような時間を過ごさせていただきました。

ちょっと行きづらい場所ですが、駅から20分歩く価値は充分にあると思います。機会がありましたら、ぜひ。

Museu Nacional do Azulejo  (National Tile Museum)
Rua da Madre de Deus 4, 1900-312 Lisboa
http://www.museudoazulejo.pt/